生まれて初めて世界に嫌悪したあの瞬間、園庭にて

Burgmüller 25 Études faciles et progressives, Op. 100 (complete)

あなたは人生で初めて自分の生まれた世界を嫌悪した瞬間を覚えていますか?

わたしは保育園の卒園が迫る季節、園の先生に「将来の夢」を尋ねられたあのとき生まれて初めて世界に絶望した。
その質問に絶望したのは全然意味がわからなかったからで、意味がわからないのは具体的には以下の2つについてだった。

  1. 将来の夢がイコール将来就きたい職業であること
  2. 非常にプライベートな質問なのに絶対に公開しなければいけないということ

わたしは分離不安がひどくて保育園に行く朝は毎日泣きわめいた。
それでも無理やりつれていかれた。保育園に行くより家にいたかった。

友達の名前と顔がまったく覚えられなかった、ひとりだけ覚えられたけどその子と仲良くするのもプレッシャーだった。
でも家族からはその一人と仲良くなるべきだという感じがあったのでがんばってそうしていた。
さらには、「みんなみたいにできない子」「泣いて困らせる子」なのに優しくしてくれる先生に感謝するよう、家族からも半ば強制され、思い込むように無理矢理に先生を好きになった。
わたしは保育園を出たあと何年もの間、友達関係や恋愛関係で何回もこの同じことを繰り返してる感覚があった。
今でも美容院の人や病院で検査受けるときの看護師さんなんかにはそういう感覚を抱いてしまう、
自分なんかに優しくしてくれる人は稀有なので好きにならなければいけないという強迫観念。
無意味に過剰な自意識。ぜんぜん取れない。

という感じで、保育園がほんとに嫌だった。
そんな嫌な場所、卒園したら保育園の人々とはおさらばだし、今後の人生で関わり続ける必要もないはずなのに、
そんな人々になぜ将来の自分について語らねばならぬのか!?
意味がわからなかった、

しかも将来大人になったら絶対に仕事しなきゃいけないなんておわってると思った。
そのころからわたしは多分、働くくらいなら死にたかった。
仕事にいいイメージが全然なかった。今もあんまりない。

それよりもむしろ将来の自分があるという感覚がずっとわからなかったし今もわからない。
将来の「夢」という言葉をきくたびに自分と自分以外との乖離を感じた。
大人になるまで生きていて自分のやりたいことをやってるのが素晴らしいという考え方。しかもやりたいことというのは労働である!
幼い頃から我々が植え付けられる強烈なイデオロギー。
それに初めて触れたときからずっと拒絶反応があって、たぶんこれをうまく取り込むことができてたらもう少し生きやすかったかなあ、

お金に困ればもっと真剣に働いてたのかな、とifを考えることもある。
小学校を卒業するまでは友達と遊ぶ回数も遊びにいける距離も内容も厳しめに制限されていたので、駄菓子屋とかでお金を使う機会がなかった。
中学生以降は学内のテストで1位とったらかなりたくさんお小遣いがもらえたけど、自分としては普通に生活してたらできることだったから努力ゼロでお金が手に入った。
大学以降下宿してたときも仕送りもらってたからバイトした分は全部貯金できるくらい余裕があった。
大学院出たらすぐ結婚して、家のことを好きなように管理してるだけでお金が入ってくる。

甘やかされたのかなあ。でもそれで生きていけてるなーって思う。
これでもまだ毎日生きるのがしんどいし。生まれてきてやったしずっと生きてやってるんだからこれくらいしてもらって当然でしょみたいな思想が根本にあるということがわたしの労働意欲を削ぎにきてると思う。

何が言いたいんかというとあんなに幼いときからあんなに無意味な質問をしてくる世界がものすごく無理ってこと、
ずっっっっと周りを喜ばせるためだけに適当な職業を答えつづけてたのを急に思い出してしまった。ので、この記事を書いてる。きっかけはわかってるけどいちいち書かない、

でもわたしはアンチ労働というわけではない。
労働内容や職業がイコール自分、となる考え方がものすごく嫌いで、
しかも、決まった時間に定期的に何かをするというのが決定的に苦手なので、ほとんどの労働に馴染めないというだけだと思う。

大学のなんか思想の授業で、労働というものが重要だっていう結論に至った思想家の話をきいたことがあって、
そのときは全然理解できなくて、
でも今思うとそれって「ていねいなくらし」(皮肉抜きの、ほんとうのそれ)なんですよ要するに。
地道に暮らしてゆくことが最終的にものすごく強いということは実際にある。
精神科の主治医に、人のために何かやるのがええよ、って言われたこともあって、それも意味わかんなかったけど。
しかし、「ていねいなくらし」って簡単に言えば、「自分のために何かを丁寧にやりつづける」ことだと思うんです。
自分のために何かをやるって他人のために何かやるよりよっぽど大変なことだよね。

個人的に、鬱の前駆症状として、手作りのごはんが食べられなくなるというのがある。
高校のとき頻繁にそうなって母を悲しませたこともある。
それはたぶん自分を蔑ろにしたい欲求が出てるんでしょうけれど、自分を蔑ろにするというのは自分のために何かを丁寧にやるということの対極にある行動ですね。

ということは労働というものの本質は、何かを丁寧にやることなんじゃないかと思う。
お金をもらって何かするということではなくて……
そういう意味でいうと、決まった対価を得ないで料理したり掃除したりつまり普通に生きてるっていうのが純粋な労働なのではないかと思うこともある。
最近やってる編み物だって、労働を煮詰めた結晶みたいな行為だ。
つらいことあるほど黙々と料理したり編んだりする傾向にあって、こういうとき労働って悪くないときもあるなあと思う、うまく距離を取るのが難しいけれど。

全然筋の通った文章じゃないしまったく終わりにたどりつく気配がないんだけど、以前はブログのことこういうふうに使ってた気がする。
自分にとってブログって場所はなんでも受け入れてくれる安全基地的な場所なんだろうなあ、
最近は新規投稿してもFacebookにあまりシェアしないようにしてて、そしたらめちゃくちゃ楽になりましたね。
FB経由で読んでますって言ってくださる人もいて嬉しいんだけどたぶん今後もあまりシェアしないと思う。
というのは、読んでもらうことに特化した記事は今後も書かないと思います、ということですね、更新通知のメール登録なんかもいちおうありますけど、、と書いても、これ自体をFBに流さないから意味ない。知らん。

なんでブルグミュラーかっていうと保育園のときお昼寝の時間にこの《25の練習曲》が流れてたんですよ。保育園に在籍してる間たった一度もお昼寝で眠れたことなくて、ずっと聴いていた。わたしにとってせめてもの救いの象徴のような曲集。

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