今年最初の月報ですが、物事を時系列で振り返る余裕がなく、ここ数日考えていることをぱらぱら書く記事になりました。
許される場所としての日記
ずっと付けている紙の日記(というか、思ったことをなんでも書くノート)を、今年に入ってからいっそう積極的に付け始めた。最近意識しているのは、なにかを書き始める前に「ここには何を書いてもいい」とわざわざ唱えることで、これによってわたしは「SNS以前の書き方」を取り戻しつつある、と思う。
SNS以後、正しくはSNSが「今のように」なってしまってから、誰にも見せない日記を書くときでさえ、誰に盗み見られても良いようなつまらない書き方をしている自分に気づいた。こうなってしまうと逃げ場がない、自分の心の中に日の当たらない場所がなくなる。もしかするとそれは「お天道様が見てる」の延長で、慣れてしまったら別にどうってことない状態なのかもしれない、けれどもわたしはそうなりたくない。神様も立ち入れない秘密の小部屋を、なんとか守っておきたかった。
わざわざ「ここには何を書いてもいい」「ここでは何もかもが許される」と唱えるのはそういう理由から。今のところ、この呪文には多大なる効果がある。まっしろいページの向こう側に、ひそやかな自由が広がっていく感覚は気持ちいい。
少しでもマシなほう
2/4に京都市長選挙があって、それに向けていろいろ考える日々。わたしが大学入学を機にこの街に引っ越して以来、市長が変わるのは初めてだ。つまり自分の脳内で「京都市長」とはすなわち「門川さん」で、門川さん以外の人が京都市長になるイメージを抱くのがそもそも難しい。
でも選挙というのは今回に限らずいつも難しい。だいたい「良い候補」なんてものは存在せず、「まだマシっぽい候補」を選ぶことになるから。どれを選んでも苦痛な中で、まだマシなほうを選ぶ、その行為自体が苦痛。
選挙だけでなく、人生においてそういう場面はけっこう多い。そもそも生きていくこと自体が苦痛なのだから、生活の中での一つひとつの選択は、実質的にはすべて、苦しい生を少しでもマシにする行為ともいえる。
だからこそ、主観的に「『好き』なほうを選べる」と感じられるチャンスがあったら、どんなに些細なことであっても絶対にそれを逃したくない。たとえばカフェで自分の好きなドリンクを選ぶとか、そういうところに大いなる救いを見出して苦しい人生に中指を立てたい。……と、こうして言葉にするとすごく綺麗事、バカバカしいな。
重力
1月は演奏の本番が2つあったほか、初めて文学フリマに出店したり、初めて自分のブランドのPOPUPイベントをさせてもらったり、急にテレビやラジオに出ることになったりいろんな会社さんからお声掛けが増えたり、クライアントとのお仕事でも「初の試み」っぽいことが多かったり、これまでのルーティンの外にある活動がとてもたくさんあって、土日も休めないことが多くて、さすがに疲れたのか風邪を引いてしまった。
咳が主症状の風邪なので咳止めがほしくて、近所のちいさな調剤薬局で相談したらシロップをすすめられた。『アマニタ・パンセリナ』を思い出す。たぶん高校時代、どこかの自習室で見つけて読んだ。
わたしにとって現実とは重力である。ベッドに横になって重力に身を委ねきると、逆に重力の感覚から逃れることができるのがなんだかおもしろい。あるいは何らかの方法でふわふわと意識を飛ばすことでも、重力から逃れることができる。今、目の前にある咳止めシロップを少し多めに飲んでお布団に沈み込めば、その両方を一度に、インスタントに味わえるだろう。でもそれをするときっと心配されるので、しないようにしている。
では、その代わりになる行為とは何? 小説や映画に没入する? たしかにそれは素敵な代替手段だ、でもあまりにも上位互換すぎていま求めているものとはどこか違う。もっと軽薄でジャンクなものはないだろうか。現実の足枷を感じなくて済む手段、自分の存在の重さからも軽さからも逃れられる手段、心のやわらかいところだけになる手段。