10月になった瞬間に涼しくなって寂しくて、その反動なのか知らないけれど、毎日のようにいろいろな人と会っていたような気がする。プライベートでも仕事でも。初めてお会いする方も多くて、刺激的な日々だった。たのしかった。でも疲れもした。社交は好きなのに社交するとHPがとても減るタイプなのだ。疲れすぎてせっかくの人間関係を破壊してしまわないように、お誘いを受けたり断ったりする、その加減の仕方が難しい。今年になってスケジュールをデジタル化した結果、予定の埋まり具合がこれまでほどには可視化されなくなり、余計に難しくなってしまった。
そんな日々の中で、ワクチンの副反応で寝込んだ日は究極の癒しだった。熱が出るのは嬉しい。幼い頃、よく熱を出していつも以上にみんなに優しくしてもらえていた記憶が、この回路を作っているのだと思っていた。けれども実はそうではないかもしれない。ほぼ強制的に社会的活動を縮小して、自分自身の痛みと苦しみに集中できること、しかも身体的な痛みと苦しみだけに圧倒されることができる、そのことがおそらく大いなる救いなのだ。新型コロナワクチンを打ってもらうことはわたしにとって、白昼堂々と実行できる自傷のようなものかもしれない。
そういえば最近、今更ながらアニメ「進撃の巨人」を一気見し始めている。これが初見のわたしは、みなさんはこんなにおもしろい作品で盛り上がっていたのか、そりゃ盛り上がるよなあという気持ちになる。現実を現実よりも鮮やかに映し出すようなところが、多くの人に訴えかけたのだろうなと思う。でもなんていうんだろう、そういうふうに語るときに想定される、概念的な、一般的な「現実」よりも、今はもっと具体的な「現実」の場面を考えてしまってつらくなるときがある。
というのもわたしは近頃、毎日流れてくる戦争のニュースに、本格的にやられてしまっているのだ。人が必要以上に死んでいる、そのことを突きつけられ、なにひとつ抵抗できずにいる。こうなってしまった経緯をなんとか学んで理解しようとしても、わかることが増えれば増えるほどやるせなくなる。これ以上世界がこうなってしまわないために自分にできることは、全然わからない。それどころか、すでに自分が、誰かの生の突然の中断に無意識に加担している可能性だってある。毎日不安になっていて、11月は10月ほど人に会えないかもしれない。自分は非力にも関わらず、いや、心底そう思っているからこそ、他者に対する自分の言動に、自分の存在に恐怖を覚えているから。それとも、こういうときほど誰かに会うべきなのだろうか。わからない。