月報(2か月分)です。
飽き性の発露
前回の月報でコワーキングスペースを契約したと書いたが、6月末に解約した。同じ場所で時間を過ごすことに飽きてしまったから……
そもそも毎日決まったルールで働くことに耐えられないと思ったから企業就職を諦めた自分が、特定のコワーキングスペースに通勤しつづけるなんて無理だったんだよ。自分の飽き性をもっと理解したほうがいい。
ということで以前と同様の暮らしに戻りました。半分ぐらいは自宅で、あとはカフェとか図書館とか、秋になったら植物園とか、好きなところで作業をやる。
ノマドワーカー名乗って旅とかももっとやりたいですよね、真剣に検討しようかなあ。経費で行ける場所があれば最高だけど、そうでなくても旅には出たいね。そろそろね。
アイデンティティの危機
ここ最近の仕事として自社商品(オリジナルブレンドコーヒー)の開発を進めているのだけれど、そのタイミングでなんか急激に新規案件への参画依頼が増え、さらに趣味の活動もいくつかやっていて、つまりプロジェクトを並行しすぎていて死にそうに忙しい。
かねてから自分は、暇であること、なるべく無職に近い暮らし方をすること、嫌なことはやらないこと、などにアイデンティティを置いている部分がある。それは別に最初からずっとそうだったわけではなくて、そういう状態をつくっておかないと心身が破滅し、その結果人間関係など大切なものの多くを失う、という規則が人生のある時期にわかったのでそうしている部分が大きく、いうなれば戦略なのである。
それなのに最近はついに、自分で「休日」と決めていた日にも無意識にタスクをこなしてしまうようになり、はっきりいってヤバい。このままでは何かが崩壊してしまう。確かに嫌なことはやってない、というか好きなことしかやってないはずなのに、こうなっているのが特にヤバい。
さすがになんとか対処法を考えなきゃと思い、めずらしくビジネス書を買った。岡崎の蔦屋書店で買ったんだけどあの店で平置きのビジネス書だけ買うのがなんか悔しくて(謎自意識)、荷物が多い日にもかかわらずずっとほしかった文芸書や思想ジャンルの本を買ったら手がちぎれそうになった。
話がそれましたが、買ったのはこれです。
たぶん有名な本なんだと思います。内容はまあ、そうだよね。ということがたくさん書いてあった。それができたら苦労しないなあみたいな定石がたくさん。でも定石は定石だから大事だし、結局は普通のことをやっていくしかないんだなと思う。
で、この本を読んだ結果、今わたしがやらんといけんなと思ったのは、「好きだからやる」「面白そうだからやる」の「好き」や「面白い」のハードルを上げること。それはけっこう自分にとってきついことで、なぜならわたしは好奇心のかたまりだから(小さい頃はおさるのジョージのようだといわれていた)、基本、なんでも面白そう、やってみたいと思ってしまうんですよね。でもそれだと破滅する環境にいる。厳しい。
じゃあどうするか。とりあえず、今回読んだ本からヒントを得た結果、何かを引き受けたり始めたりするかどうかの判断をするとき、頭に「絶対に」をつけることにしようと考えている。「『絶対に』好きだからやる」「『絶対に』面白そうだからやる」というふうに。これでけっこう、ハードル上がるんじゃないでしょうか? いい感じになるよう、応援してください。
「社交」をやる
最近「ネットワーキング」の必要に迫られている。
上掲の本にも書いてあったんだけど、以前から自分でも薄々、今後本当にやりたいことをやるために今はそれをやらなきゃなと感じ続けていた。そして同じ立場にいる友人たちにも、つながりが大事だよって言われるし、というか今までも友人たちがどんどん人に会わせてくれてるからわたしは成り立ってきた側面があり、自分でももうちょっと積極的に人とつながれる場所にいかなきゃな〜と思っていたのだ。
なんでそれが難しいかと考えると、もともと自分はそんなに外向的な性格ではなくおうちが大好きというのが、まずあるでしょうね。でも昔と比べて、人と同居しているという環境の中、やっぱり一人で突然飲みに行ったり突然遠くに出かけたりはしなくなってる、曖昧にふらふらする機会が減っているのかもしれないと思った。昔はそういう突発的な、衝動的な行動によって人間関係が開けて、全然違う面白い道につながるみたいなことがよくあった。
今も別に、そういうふらつきを誰かに制限されているというわけではなく、一般的に見ると自由すぎるほうだかと思うから、自分自身が無意識に制限をかけているんだろうな。これってどうやったら解除できるんでしょう。もっとふらふらと社交していきたい。ずっと課題。前にもどこかの記事で書いてるかもしれん。
「社会」をやらない
この前、家のまわりを散歩し、雨がしとしと降り続けたあとのどんよりした鴨川と草木を見て、そのあと古本屋などをめぐっていたとき、なんか突然「なんで最近こんなに『社会』やってるんだろう、もういますぐやめよう」と思ったので、やめる。
わたしがやめたい括弧付きの「社会」というのは、いわゆる社会人的な顔、みたいなものである。謙遜とか遠慮とか波風を立てないための振る舞い、そういうものが必ず大事なケースも存在するけど、大事じゃないことのほうが多いから、ちゃんと見極めて大事なときだけそれをやる。それ以外は全部無駄、わたしにとっては。そういうのをやってるからしんどくなるだと思った。
「自分の機嫌を取る」ってフレーズがあるけれど、わたしは自分の機嫌を取る前に、そもそも自分が不機嫌になることを禁止していた。まず不機嫌にならないと機嫌を取ることすらできない。不機嫌なときは、もっと不機嫌でいい。乗りこなすための波をわたしは持っていて、それは別に恥ずかしいことではない。
それで社会性がないと言われても別に問題ない、わたしの周りに勝手にできる社会がわたしにとっての社会でいい。枡形商店街の七夕飾りの短冊を見ると、ぷりんせすになりたい人、ウルトラマンになりたい人、ダンスがうまくなりたい人、落単を回避したい人、論文をアクセプトさせたい人、恋人がほしい人、仕事がほしい人、好きな人がほしい人、商売を繁盛させたい人、家族の幸せを叶えたい人、世界平和を叶えたい人などがいてかなり幅広く、人間社会の重層性を感じられて面白い。その中に、自分らしく生きたい系の願いを書いてる人がけっこういて、わたしも今年はその中のひとりなんだけど、でもそれ以外の具体的な願いだって全部がそのときのその人の自分らしさの渇望であるのかもしれない。ぜったいに混じり合わない無数の渇望のいくつかがなんかいい感じに組み合わさったり、喧嘩せず重なったりして奇跡的に成り立つ社会、それがわたしを織り込んだとき、それがわたしにとっての社会で、それでいいんだと思った。
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