君が眺めていないとき、月は存在するか?


この質問をいつも投げかけてくれた彼女のことをわたしが思い出したのは何年ぶりのことだろう?
今いったいどこにいるのかまったくわからない。何度かメールしてみたけれど返事が来なくて諦めてしまっている。

わたしが思い出さない間、彼女は存在したのだろうか?
わたしが思い出す限り、彼女は存在するのだろうか。



これを久しぶりに考えているのは昨日マルクス・ガブリエルについて少し読んだり観たりしたからで、彼によれば世界以外の全ては実在する。
それはどこにあるのか? 存在はすべて、どこかに irgendwo ある、という。

あなたが思い出す限りわたしは、身体が死んだあとも、どこかにありつづけることになるのかな、それはちょっと怖い。
でもそう考えれば「生きなければいけない」という責任の重みがだいぶ軽くなるような気もする。



「生きなければ…」という気持ちは、わたしが幼少期から背負い続けてきたものだ。
父親が死んだ分、わたしはどれほど死にたくなっても母のために生きなければいけないと思ってきた。

その気持ちがかえって死にたみを高めた。それは父親の死に方こそが自殺であるためだ。
「お前が生きていればわたしは自殺できたのに」という怒りがずっとわたしを内側から蝕み続けた。



最近はあまり具体的に死ぬ手段を考えたり道具を買ったりしなくて済んでいるのは、結婚する直前に父の墓参りに行ったら「死ぬなら結婚前にしろ」みたいな幻聴がきこえたのも一因としてあるが、何よりも、「生き続けなければならない」という責任感がだいぶ薄れてきたのが大きい。

なぜ責任感が薄くなったかというと、母が以前とは別人のようにわたし無しで楽しそうに暮らしており、また夫はそもそもわたしがいなくても絶対大丈夫そうな人間だからだ。



それに加えて「誰かが思い出す限りわたしはどこかにありつづける」と考えることで、もっと楽になりそうな気がした。
なぜ今までそう考えられなかったのか?
それはおそらく、わたしの実家では長い間、父親のことが「なかったこと」「触れてはいけないこと」のように扱われていたからだと思う。

娘の結婚に反対していたらしい祖父母が亡くなり、わたしも母もいろいろと学ぶ中で、今では少しずつ父の話題にも触れられるようになってきた。
まあ今でも親しみとかは全く持てないけれど、自分の親についてとりあえず話せるというのは良いことだと思う。



自分や他人の自殺を止めるのは本当に難しいよね、わたしはぐうぜんまだ生きているというだけ。
ただ、「死んでも忘れないよ」っていうのは、「死んだら悲しいよ」っていうのと実は同じなのかもしれないと思った。
一番自殺したかったときわたしは、死にたいというよりもむしろ、自分を忘れ去ってしまいたかったし忘れ去ってほしかったのだ、多分。



※ ここを読んでくれている高校のお友達で、冒頭の「彼女」が誰だかわかって、そして彼女の現況をご存知の方がおられたらそっとわたしにご連絡いただけると嬉しいです。

▼ マルクス・ガブリエルのベストセラー本↓

▼ 國分功一郎も、死者との関係について似たようなことを言ってた気がします(関係性が変わるだけでいなくなるわけではない、みたいな)
どこで言ってたかは忘れた……この本じゃなかった気もするんだけど(100分de名著『エチカ』だったかも)、これは「意志」「責任」にまつわる本で純粋におすすめなので載せておきます。

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