死んでしまっているかもしれない

何かを書くというのは訓練のいることなんですよねえ。前のブログをやめてしばらくしたらすぐに141字以上が書けなくなったし、読むのも大変になりました。

カウンセリング受け始めたのをきっかけにnoteをやって、その後カウンセリングやめるのと同時にnoteもやめて(やめたすぐあとにみんながnote始めたからちょっと時期ずれで寂しい)このblogを始めて今、ようやく補助輪付きの自転車位の感覚で書いている。

死ぬほど書きたいことができたときにちゃんとそれを書けるよう、練習というか、筋トレをしているイメージだろうか。

ある時期わたしは、自分が本当は既に死んでしまっているのではないかという妄想に取り憑かれていて、そしてなんだか、どうしてもそれを書きたくて、書かないと死ぬという感じになって、毎日キーボードの上でストラグルしてた時期があった。

だけど、そのとき偶然読んだ平野啓一郎の本がかなり似た設定で始まったのだ。それでなんだか疲れて中断してしまっている。

平野啓一郎の作品は本当にすごく好きなんだけど、同じゼミで同じ教授に学んでいたということがまざまざと感じられてしまって素直に読めない。それがめちゃくちゃ悲しい。自分の運命を呪うとすればこのことが一番に来る。そのような作家とほんのちょっとでも発想が被ったのは、喜ぶべきことかもしれないが、やっぱり複雑な気持ちなのだ……わたしは、あの偉大な作品を前に、きっと跪いてしまった。

でも今この記事を書いていると、書き出しの設定こそ似ているかもしれないが、その後の展開は全く違うのだし、そもそも自分が本に求めるのは物語というより語り口であるのだから、またそろそろ続きを書いてみても良いのかなあという気持ちになってきた。

それだけを言いたくてこの記事を書きました。

やはりわたしにとってブログという場は、なんでも話せる信頼の置ける人間のような存在なのだと思う。

それはすなわち記事を読んでいるすべての人間を、あるいは読む可能性のあるあらゆる人間をそのように信頼しているということなのでしょうか?

いやいや違うはず、そんなわけないよねえと思う。なんで全体に公開してる場が自分にとってこんなに親密な場になるのか本当によくわからないですね。まあいいや。

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