ここ最近、うまく眠れない。毎日真夜中に必ず一度は目が覚めて、そのまま寝付けない。しかもそうやって目が覚めているあいだ、世界をひどく憎んでしまう。いつもそこにあるはずの、ほんの小さな音や光さえ、このときばかりはわたしの睡眠を故意に妨げているように思えるのだ。それらは少しずつ体力を奪ってゆくのだが、素知らぬ顔をするどころか、このくらいで疲れるのなら今日は何もせずに寝続けていなさいと、やさしく諭すことさえする。その、世界全体の、つまり自分以外の、自分へのやさしさが最も苦しい、なぜかというと、空が白んで朝が来ると、わたしはどうしても起きる必要があるように感じてしまうから。自分が眠っているうちに家人を仕事に行かせてしまえば、そのまま彼は事故や事件に巻き込まれて死ぬのではないか、そして自分はこの地獄に取り残されるのではないかという恐怖が拭えないのだ。だからどんなに寝ていなくても、玄関先できちんと送り出して、さいごの言葉になっても良さそうなセリフを吐き出さずにいられない。こんなにがんばったのだから仕方ない、精一杯努力したのだから、自分が一人この世に取り残されても自分のせいではない、自分は悪い子ではなかった、そう言い聞かせているだけで、うしなわれる対象を思い遣っているわけではないのが嫌だ。あの会話がさいごだったと後でわかっても納得できるよう、予防線を張っているだけなのだから。ほかにも日常的に、思い遣りに似たあらゆる言動が、同じ原理で発露している可能性を思うと悲しい、ひとを殺したいほど疲れているときに限って、相手のためだけになる家事を進んで丁寧にやってしまうのも、そういうことなんだろう。もうずっと昔から、これを繰り返してきた人生だ。たとえそれが幼少期の経験にもとづく呪いだと、奥底でぼんやりわかっていたとしても、今更どうしようもない。それに、この恐ろしい生に取り残される恐怖を体験せずに生きる幸運なひとを、べつに羨ましいとも思わない。ただ、せめて今後、誰よりも先に死にたい、もう誰も見送りたくないとは思う。それなのに、次々と結んでしまう関係の数々をいったいわたしはどうしたら良いのだろう。大切だと思う人の数だけ、取り残される可能性も増えていく。人と関わりたいと願うこと、社会的であること、人間的であることが、自分を深く傷つける。失うことの恐怖を考えすぎて、それくらいなら自分から捨ててしまおうかと思うし、捨ててしまったことが何度もある。いっそ、いつでも投げ捨ててしまえる関係しか結ぶべきではないのだと決意した、その日からずいぶん経って、自分との約束を守れないことが多すぎる。もう誰ともわかりあいたくない、そのはずなのにこうやって、誰かが見えるところにそれを書いてしまうのはなぜなのか。人間が好きすぎて嫌いすぎて本当にしんどい、生きているのが苦しい、自分と世界が一体であればいいのに、わたしはもともと世界に疎外されているから、自分が生きるのをやめたとしても、本当の意味で取り残される苦しみを消すことができない。
2023/01/18
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