日記

朝起きるとインターネットの一部でChim↑Pomの《気合い100連発》が非難されていた。

弱い者いじめ、福島ヘイト、反日、など

あの作品を見てそういう感想しか出てこないのか、本当にか……?

本当にそういう感想しか持たない人がいるというのは、まあありえることだ、人によって当然捉えかたは異なるし、自分にとって信じられないような感想に触れること自体は良いこととも言える。

けれど、自分がそういう感想しか持たないことを理由に作品や作者へのまるごとの否定を表明する人がこんなにもいるというのはどういうことなのか。まったくわからない。とても怖い。

なんらかの表現を見て、胸に迫るものや締め付けられるものがあったとき、そういう感覚をなるべく正確にあらわしたり、感覚をもたらした原因、正体を明らかにするには時間と労力がかかる。
そして、作品に嫌悪感を抱いたり、「あれは芸術なのか?」と思ったりした場合には、そのことを丁寧にあらわすのがさらに難しくなるとわたしは考える。

なのにTwitterなんかで、あんなに簡単に、あんなに単純な図式に……

なにかに言及することへのハードルがあまりにも低い社会だと感じる。
つらい、

判断をとどめておくことの美徳や
何も表明しないことの誠実さ、はどこにいったのか。

すべてが話し言葉になって表に出されなければいけないのか。
目に見えない言葉=思想に裏打ちされた行為は今どこにある? どこに残っているの、

見える化なんか死んでしまえ

「芸術」に内在する権威主義的なものへの批判が本来の意味で成立する時代はもう終わってしまったのだろう、
もはや、そんなぬるいことを言っていられなくなったということなのだろう。そんな言いかた、戦争みたいやね、

でも現実に、自分の生存が難しくなってきている。

外には、自分に理解できない原理で動いている人間たちがたくさんいる。理解できないとわかっているものであっても、できるだけ理解しようと努力したいとわたしはずっと思ってきた。だけど正直、あらゆる情報を遮断していないと押しつぶされて死んでしまいそうだ。それでいいのかと問う自らの声によって、なんとか毎朝カーテンを開けて様子を見ている。でももう。

ばかみたいな知らせがあまりにもたくさんやってくるから、もう何に対してもあまり驚くことができなくなっている。これはおかしいことなのだ、驚かなくてはならないことなのだ、と頭が言うからなんとか心のほうでもびっくりしようとする、でも身体はもう諦めかけているような気がする。

目が開けられない。

しんどい。理想を掲げたい。
腕が痛い。諦めたい。たすけてほしい。

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