千葉雅也『意味がない無意味』

◆ プラハ行きの機内にて

3月末、演奏のためにプラハに行くことになり、久しぶりの国際線に乗ったものの心の中はあまり愉しくはなかった。
プラハという歴史的な街について一冊の本も読むことなくそこへ行こうとしていることへのどうしようもない罪悪感、そしてこれから演奏する作品を自分の納得のゆくように解釈できていないまま本番を迎えようとしていることへの焦燥感が、KLMのジェット機で関空を出発したばかりのわたしを苦しめていたのだ。

「勉強していないこと」へ謝りたくなる気持ち。それが相手へのrespectを欠く行為であるような感じ。
旅行するときや、演奏するときばかりではない。
コンサートホールの客席で、映画館で、美術館で、芸術と呼ばれるものに向き合うとき、いつも齎されるこの「申し訳のなさ」。
果たしてこの感覚は、本当に正しいのか? あるいは、持つべき感覚なのだろうか。

そんなことを漠然と考えていたわたしが、プラハ行きの飛行機でこの本を読むことができたのはかなりの僥倖だった。
なぜなら、わたしはこういう種類の本を読むと高確率で救われるからだ。よく、読みやすい種類の哲学の本を自分勝手に読んでは涙を流して感動している。
頭脳も性格も哲学にじっくり取り組めないたちで、それが悲しいこともよくあるけれど、だからこそ簡単に救われることができる。短所はときに長所になるのだ。

◆ 非人文学的 Non-Humanities

この本には数々のテーマが短篇集的に収録されているが、今回、初めにわたしを感動させたのは「思弁的実在論と無解釈的なもの」に出てくる〈非人文学 Non-Humanities〉という概念である。

「非人文学の方へ、それは、飽くことなく解釈に解釈を重ねることを絶対的に中断することに他ならない。(中略)何かを〈置き換えること〉一般としての解釈がまったく無効になる。秘密を秘密としてどのように取り扱うかが問題となる」(p.150)

なるほど、解釈を中断するという選択肢があるのか、と思った。

半ば強迫的に解釈を目指してしまうこの癖!
なんとか解釈し、わかりやすく噛み砕き、他のなにかに喩えてみせることが絶対に良いという観念のもとでこれまで生きてきたのだ。解釈することが学ぶことであるような感覚もあった。人文学は確かに解釈ばかりしている。

しかしそれは少し苦しい、つらいことなのだ。解釈することの意味を見失いそうになっては、必死で異なる側面から別の意味を見出す(つまり、別の層で解釈をし直す)。
その繰り返しが人生ならばいっそやめてしまいたいとすら思うこともあった。

では、解釈を重ねることを絶対的に中断する、とはどのようなことなのか?
このときのわたしは、一瞬でも良いから解釈のループから抜け出したい、そういう気持ちだった。「街の歴史を自分なりに解釈し、自分の人生の中に意味付けなくてはならない」「フレーズの持つ意味を理解して表現しなくては」このような強迫観念から一刻も早く逃れたかったのだ。

どうやって非人文学の方へ?

オブジェクト指向存在論的なやり方として挙げられている「ものの列挙」「思考停止による思考」という単語。
それを見て、わたしの頭には「演奏がものすごくうまくいったとき」にだけ得られる次のような感覚が思い浮かんだ。

(わたしの感覚的な身体は交通事故に遭った瞬間のように宙に浮いていて、遠いところから奏者と指揮者と観客と、そして音を眺めている。 音がただ音としてそこに、一瞬の奇跡のように配置されて「ある」。 音楽にはっきりとした触り心地がある。 小節線や音符の旗のような、音を時間の中に意味づけるための記号がすべて消え失せているし、作曲された当時と今とを隔てる時間の壁もなくなる。 音楽そのものがあまりにも当然に目の前にあるので、どうにか意見をすり合わせるために言葉で交わした議論やたとえ話がすべて馬鹿らしく思える。 何かが急激に腑に落ちる。今となってはうまく言い表せないけれど、「それがただそこにあるということが本当に起こるのだということ」がわかるような。 そして、ここがどこで自分が誰なのか、隣の人が誰なのか、また、今自分が演奏しているのがいったい何なのかということは、あまりわからなくなっている――)

これは多分、「人文学」よりは「非人文学」に近い感覚だと思う。あらゆる解釈を嘲笑うようなこの体験の中では、「置き換え」が一切起こっていないような気がするのだ。

◆ 非人文学と人文学との並立

では、このありありとした感じを常に目指せばよいのだろうか?
それはきっと違う。解釈が必要なときだってあるはずだと思う。

そもそも、ものを解釈する癖というのは人間として生きている限り誰にでもあるのだ、生きているうちのほとんどの時間、周りを取り囲む世界に対してある特定の意味を見出し、何かしらの解釈をしていなければ人は気が狂ってしまうとわたしは思う。
(「意味の有限化」は、本書では「解釈」とは別のこととして語られているのかもしれないが、わたしにとってその2つはかなり近い行為であると思う)

しかし、そうして生活するちに、解釈には終わりがないことがわかってくる。それはあまりにもしんどい。無限回廊だ。中心に何があるのかわからなくなってくる……


今思えば、わたしはずっと次の2つの間で揺れてきた。

「知識がなくても音楽が良ければOK」vs. 「演奏を裏付ける知識こそが重要」

前者は後者からするととても暴力的な感じがする、だけど、あの「うまくいったときの体験」をしてしまったら、後者の考えだけに立脚するのはバカバカしく思えてしまうのだ。
(音楽が「良い」というのもひとつの解釈なのかもしれないけれど、この良さというのはもっと圧倒的な体験を齎す感じ、というか?)


そこで、本書が提案してくれるのが「非人文学と人文学との並立」というものだ。

因果性と善悪がたしかに作動している(人文学的な)状況が、同時に、無因果的で無倫理的な(非人文学的な)面を持っていることを認めることが提案される。

わたしはこの提案にこそ本当に救われたのだ!

この社会を、非人文学的な無解釈的なレイヤーと人文学的な解釈的なレイヤーとで、二重に考察できる、そのような可能性があるということ。
本書によると、わたしたちには時空的な制約があるから、関係−構築の解釈を無限に続けることはできず、解釈はいずれ中断される。
その中断は二重の意義を帯びており、一方では終わらない解釈の再開のための中断であり、他方ではわたしたちの有限性を超えたところにある真正なる中断であるという。後者については次のように述べられている。

「最後の答え(必然性)を与えるのではなく、絶対的に事実的である何かを前にしての〈思考停止としての真理〉に直面することで解釈を終わらせる、そのような真正の中断」(p.159)

わたしはこれを読んで、ほんとうの中断のときに目の前にあるのが「絶対的に事実的である何か」であるというのが嬉しかった。
無限回廊のその先に、最後の最後にやっと見える何かがあるのなら、報われる気がする。それが、ひどく余所余所しい無関係な他者であっても、理解に苦しむような暴力的な何かであっても……いつか、「そうだったのか!」と思いたいのかなあ。


先程の引用に続く次のことばを読んだとき、わたしはこの文章で一番泣きそうになる。

「おそらくは、この後者の面に、諦めや赦しの可能性が宿っている」(p.159)

「諦めや赦しは、解釈を続けながら同時に、無因果性と無倫理性のリアリティを(しぶしぶでも)認めるのでなければ、不可能ではないだろうか」(p.159)

そうだ、そうなのだ、としか言えない。

諦めや赦しは善悪を超えている。そして善悪はいつも必ず解釈側にあり、しかし解釈側があるからこそ無解釈の側で諦めや赦しが発生する。

無限の解釈修行を続けながらも一瞬、無解釈の世界を見遣ること、または無解釈の世界に迷い込むこと、わたしの体験した「うまくいったときの感じ」はきっと諦めや赦しと同じ境地にある何かだったのだ。だって諦めも赦しも、あれと同じようにとても気持ちいいのだ。

◆ そういう考え方もあるよね

結局、プラハの街についてはあまり勉強せずに行ったおかげで、目に映るものをそのまま美しい、と思える機会が多かった。
演奏も少しはうまくいった。少しだけあの世界が見えそうなときがあった。


本書には「非人文学/人文学」の他にも、何かを並列させるという考え方が頻繁に登場する。

オーケストラがプロとアマチュアの混成であり、さらに日本人とチェコ人とチェコに住む外国人との混成であったこと、非・被災地で被災地の復興を願ったということ、いろいろなことが複数の極を持つような今回の旅の初めにこの本を手にとって本当に良かった。

このようなことに関しては「分身」という考え方も素敵だし、役に立った――これ以上は長くなるので、本を読んでください。


帰りの飛行機で、窓の外をふと見ると柔らかそうな雲がゆったりと広がっていた。
こちらが雲を何の形に捉えようとも、雲はわたしを何にも喩えることがないのだろう。そのことにわたしはなぜか安心した。

そしてなぜか、ハイデガーを研究していた友人の「そういう考え方もあるよね」という口癖を急に思い出した。

2つ以上のレイヤーが並列していない限りそこに間(or 差, 距離?)ができることはない。そして、そのようなものがなければ見えてこない何かがある。
そんなことは、きっと多くの人がずっと昔から言っていることだろう。でもわたしはそれを、今回の読書と旅を通してやっと実感できたように思う。

「そういう考え方もあるよね」というのは、今思えば偉大な言葉だった。

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