Frei aber einsam

Sonate F.A.E.  Scherzo (Vn: Jascha Heifetz)

なにかに出会ったときのこと、そこで感じた気持ちを、
死ぬまでずっと心の中にとどめていたって、困ることはないのに。
ついこうして、誰かに読んでもらうことを期待して書き置くのは、どうしてなのか自分でも不思議だ。


タイトルは、『F. A. E. ソナタ』から取った。

ロベルト・シューマン、アルベルト・ディートリヒ、ヨハネス・ブラームスの3人が
共通の友人であるヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムのため、1853年に作曲したヴァイオリンソナタである。

F. A. E. とは “Frei aber einsam”(自由に、しかし孤独に)の頭文字で、
かつ、それぞれがイタリア音名のファ・ラ・ミに対応しており
この音進行が曲全体をとおしてのモチーフとなっている。

“Frei aber einsam” は、ヨアヒムのモットーである。
ヨアヒムは1831年に当時のハンガリーに生まれ、1907年にこの世を去るまで、生涯のほとんどをドイツで過ごした。

日本に生まれ、いまのところずっと日本に住んでいるわたしは、
ずっと、自由にありたいと思って生きてきたし
孤独でありたいとも、強く願ってきたと思う。

では、ヨアヒムに共感できるのかといえば、そうではない。
“aber” という接続の仕方がよく理解できない。

長らく、わたしには「孤独でなければ自由でない」という思いが強く、
最近ようやく、F. A. E.をひとつながりのものとして
つまり「自由」と「孤独」を、”aber”でつなぐことのできるペアとして
頭では捉えることができるようになった気はする……けれど、
そこで起こることが、かつての自由の喪失でないのかどうか明らかではなく
この “aber” を受け入れることによって、手の中にある宝物がいつのまにか変質してゆくのではないかと、とても不安になる。

と、ここまで書いて、”aber” を辞書で引くと
「しかし」のほかに「ただし」という表現があった。

ヨアヒムがどういうニュアンスでこの接続詞を用いたのかわからないが
「自由に、しかし孤独に」だけでなく「自由に、ただし孤独に」という解釈の可能性を得てわたしは、
少しだけこの言葉に近づけるかもしれないという予感を、はじめて抱いている。

ちなみに、F. A. E. ソナタのScherzo楽章を作ったブラームスによる
交響曲第3番冒頭の F-A(s)-F の音列には
“Frei aber froh” の意味が織り込まれているという。
“froh” とは うれしい、たのしい…といった意。

哲学的な定義や論争を追いかけるのは得意ではないけれど
こうしたちょっとしたエピソードを聞くたびに
「自由」に対する興味はどこまでも高まり、
それが持つ深みや幅に対して、畏敬の念とも呼べる感情が深まり、
どんなものかすらわからないにもかかわらず、強い憧れや懐かしさを抱く――


ほんとうはこのページでわたし自身のもっと具体的なことを説明するべきなのだろうと思い
いろいろ書いてはみたけれど、あまりうまくできなかった。

オーケストラでオーボエを演奏していて
本を読むのが好きで、どちらかといえば文体で選ぶ派、
上に出てきたR. シューマンのことを少し研究していたことがあり(頓挫中)
最近はワインや食を通して地理や歴史、地学や化学などを学び直している。

詳しいことは、記事が少しずつ増えていくに従って、ぼんやりと見えるようになればいいかな。

書きたいと思ったものだけを書くという形で、明確なジャンルもなく、とりとめのないものになるだろうと思う。
できるかぎり、居心地の良い場をつくれたらいいな。
どうぞお付き合い、よろしくお願いします。

        seramayo 拝

2件のコメント

  1. こうしてまた、せらまよさんの文章を読めること、ほんとうに嬉しいです。楽しみにしています。

COMMENT

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください