2021/04/15

brass quilt pen

最近、noteでまたいろいろしんどい騒動が起こっているのを見るにつけて、ずいぶん前に自分がnoteに手を出したもののすぐにやめたこと、正解だったなあとしみじみ思う。やはり人の文章っていうのは書く環境に巻き取られてしまうように感じるし、自分はとりわけそういう引力に弱いと思っているから。noteで何かを書くときには「妙な居心地良さ」みたいなのがあり、たまたま自分にそれがあまり合っていなかったから、うまく抜け出せただけかもしれない。今回の出来事が、そんな些細な手触りより、もっと巨大な要因で引き起こされているのはわかっている。でも手触りっていうのは無視できないし、無視できないからこそ無視させようとさせられる日々だよな、みたいなことを思うのだ。

どこで書くか、というのはどこで考えるか、というのとほとんど双子。noteかはてなブログかWordPressかあるいはTwitterか、という比較もできるけれど、書く道具によっても違うなあ。パソコンの画面に向かうとき、自分の紡ぐ文章は少しだけ身体性を失うじゃないですか、手書きのときに比べて。スマホはまた全然違うよね、手応えがなくて、しんどくなさすぎて不安になるときがある。スマホやパソコンばかりで物を書いていると、手書きの圧力に思考が耐えられなくなってきてこわい。そういう恐怖もあって、わたしは手帳をデジタル化しきれないでいる。

歌うときとピアノ弾くときの差、とか、同じピアノでもおもちゃのピアノ弾くときとコンサートグランド弾くときの差、みたいなもので、どれが良いとかではない。けど、そういう差で出てくる表現がすぐに変わってしまうっていうのは忘れずにいたい。自分の考えの材料のうち、自分由来じゃないものがけっこうな割合であるんだということ。もちろん責任から逃れるためにそれを知っておく必要がある、みたいな話ではなくて、どちらかといえば人間の無力さを引き受けた上でそれでももがくために、である。

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