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名付けられた牛と名もない牛を食し、誕生日を祝った夜

世の中には、自分の気持ちの中でなんとか折り合いをつけなければならない場面が数多くある。ものを食べるという行為は、その最たるものではないかと思う。目の前の食材を犠牲にして自分は生きていくのだという事実を毎回突きつけられる。動物や植物の「痛み」を想像し、自分の命はそれに値するのかという疑問を抱きながらも、それをなかったことにして、とりあえず食べたり飲んだりしている。その繰り返しで、わたしはここまで生きてきた。

緊急事態宣言発令下のある夜、わたしは夫とともに鴨川近くのレストランにいた。信頼できるシェフとソムリエのいるお店。もともと徹底した衛生管理をおこなっていたお店だが、新型ウイルスの流行に際して、1日1組に限定して営業なさっていた。わたしは好きな人の誕生日を、素晴らしい料理とワインで祝いたかったし、そのことが、長らく営業自粛を要請されているレストランにとって少しでも助けになるのであれば、より嬉しいと思った。

普段から家に引きこもって暮らしているわたしの場合、今回の自粛ムードの中でも特に人としゃべる機会は減らなかった。減るほどのものがないのだ。自粛しようとしていなくても結果的に自粛してしまう感じだった。だから、緊急事態宣言下でお店に行って、久々に人と話しても、特にいつもと変わらないかもしれないな、と思っていた。つまり、「いつもどおりの久しぶり感」を感じるのだろうなと予想していたのだ。

でもその予想は外れた。ひっそりとした河原町通りを歩き、細い路地を抜けてドアを開け、あたたかい色の光のなかでオーナーシェフが出迎えてくれた瞬間に、もう涙が出そうになった。なぜこんなにも感情がこみ上げてくるのか、自分でもわからずに混乱した。

その晩は、カウンターに通してもらった。きわめてプライベートな感じのある空間だ。目の前にシェフがいて、お肉を焼いてくれる。前菜からメインまですべてがお肉で構成されたコースで、ひと皿ずつにワインがペアリングされる。ワインはナチュラルなものをセレクトしている。なるべく自然な環境の中で栽培されたぶどうを使い、なるべく自然に発酵されたワイン。

このお店では丁寧に手当されたお肉を扱っている。焼く前に、生の状態で香りを嗅がせてもらえる。眼前でテラテラと輝く表面。これはやっぱり生き物なんだ、と思う。思わざるを得ない見た目と香りをしているのだ。

シェフが、それぞれのお肉のブランド名を教えてくださった。近江牛とジビーフだということ。どの部位なのか。どれが熟成なしで、どれが熟成しているものか、といったことたち。それから、ジビーフに関しては、その名前を……

「わたしは、個としての名前を持って死んだ牛と、ブランド名はあってもその牛としての名前を持たずに死んだ牛の両方を、これから食べるのだ。そうやって、ひとの誕生日を祝うのだ。用もなく外出しただけで人殺しのように言われる、この緊急事態宣言下において」

そう思ったとき、ここ最近のすべてがとても可笑しく思えた。大切な命をありがとう、とか、家にいるだけで誰かの命を守れるとか、そういうのが全部。

ジビーフの彼の名前を聞き、オウム返しのように自分でも口にした瞬間、ひとつの肉塊に、かつて牛全体だったときに持っていたのであろう存在感が現れた。では、名前を知ることのできなかった近江牛については、ただの肉としてしか認識できないかというと、そうではなかった。ジビーフから順番に連鎖するように、どのお肉にも存在の重みが立ち現れる。そしてわたしは自分のあばらあたりの肉が切り取られるのを想像する。善良な市民や、善良でない市民のあばらの肉を想像する。コロナ苦で自殺したとんかつ店主の肉を想像する。どんな香りがするのだろうか。やっぱり全部が可笑しかった。そして愛しかった。いつまでたっても深刻さを手放せないわたしたちのことが。

そうこうするうちにコースが始まり、わたしはもう何も考えられなくなった。というか、考える必要がなかったのかな。過去や未来の命について考えなくて済むのはいつぶりだったのだろう。目の前に次々と立ち現れる命の現在だけに相対することができた、2020年5月の夜。たぶん一生忘れない。

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