『すべての、白いものたちの』

『すべての、白いものたちの』
このタイトルを初めて目にしたとき、自分が中学生の頃に「白いということ」についての作文を書いたことを思い出した。
雪、白樺、ガードレール。
それらが当時のわたしにとっての「白いものたち」であった。

「白い、とはどういうことなのか」そんなことを書いた作文だった。
詳しい内容は忘れてしまっている。覚えているのは、その作文を自分がほんとうに切実には書けなかったこと、そしてひとりの教師にその事実を指摘されてしまったこと、その2つだけだ。

学校向けに書くのが上手いですね、という言葉。未だに自分の心に突き刺さったままだ。
道徳の授業で褒められそうな、書き手の自分が半分しか同意できないようなつまらぬ結論……そのためにわたしに利用された雪や白樺やガードレールのことを思うたびに胸が苦しくなるのだった。

だからわたしはこの本を読まなければならない、と思った。
これを読んだら、あのとき自分が考えていたことを、再び考えることができるかもしれない。切実に。心から。
「白い、とはどういうことなのか」ということを。

「おくるみ うぶぎ しお ゆき こおり つき こめ なみ はくもくれん しろいとり しろくわらう はくし しろいいぬ はくはつ 壽衣」

ひたすらに街を歩くときふと頭に浮かんでくるような文体で、白いものが語られ続ける。
その白の後ろに透けたり、白にくるまれていたりするのは、常に生と死だ。
生きている自分と生後すぐに死んでしまった姉。
死ななかったかもしれない彼女と、生まれてこなかったかもしれないわたし。
ワルシャワと韓国という2つの街で、曖昧に溶け合ってゆく光と影、そのあわい。

韓国語で白い色を表す言葉には「ハヤン(まっしろな)」と「ヒン(しろい)」の2つがあるらしい。
「ハヤン」は綿あめのようにひたすら清潔な白、「ヒン」は生と死の寂しさをこもごもたたえた色。
この本で著者が書きたかったのは「ヒン」のほうだという。

韓国語は全然わからない。でも、白さが2種類あるというのはなんとなくわかる気がした。
「ヒン」のほうの白さに切実に向き合うのはとてもむずかしいのかもしれない、と思う。

この本は数種類の紙で作られている。読み進めるうちに、紙の白さが変わっていく仕組みだ。
「白」の種類は無限にあるように思える。すべての白いものたちには、それぞれの白さがある。
この世にある無数の色のうち、どこからが白なのだろう?
白いものについて「白い」といえるのはなぜなのか。
そう考えていると何もかもが白に思えてしまう。
それが、中学生のわたしが書いた「白い、とはどういうことなのだろう」という意味だった。
「ほんとうに白い」ということについて、どう考えれば良いのかわからなかった。

現在、常にわたしにつきまとっている希死念慮は、その頃に初めて生じたように思う。
この本で著者が、死んだ姉のことやそれを語る母のことを思うように、わたしは、父のことや父について語る母のことを思う。思ってしまう。
新しい人間の可能性を遺して、自死してしまう人間について。その記憶を抱えて生き続ける人間について。破壊と再生について。

白いということは、どういうことなのだろう。
ほんとうに生きているということや、ほんとうに死んでいるということについて、どう考えれば良いのか?
中学生のわたしが向き合いきれなかった問い。今の自分なら、もっと長い時間それらを眼差すことができる。
でも、答えはまだ用意することができない。そのことだけがわかった。

ほんとうの白に近づきたい。まだその存在を信じているからこそわたしは、ほんとうの白が何なのかわからないなどと考えてしまうのだろう。
生きている限りは近づけないのかもしれない圧倒的な白。
そんなものが存在するのだろうか?
それを信じられなくなるのが生きるということなのだろうか? 信じなくなるどころか、これらの概念を全部忘れ去ってしまった頃にようやくたどり着けるものなのかもしれない。

でもわたしは、ほんとうの白を信じなくなったときにこそ死んでしまう気がするのだ。
こう感じるのがなぜなのか全くわからない。毎日、ほんとうにまいにち、自分にはすべてのことがわからないように思う。

そんな毎日の果てである今日、わたしは一段と心地よいわからなさを静かに食みながら、あらゆる白に包まれている。

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