川上未映子『夏物語』と『現代思想:反出生主義を考える』を読んだわたしのとりあえずの考え

少し前のニュース。

出生数90万人割れへ 19年、推計より2年早く:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50672490W9A001C1MM8000/

まだ90万人も生まれていること、生まれさせることを決めた親が90万組もいることにむしろ驚愕する。わたしはそっち側の人間である。

川上未映子の本だけがわたしの理解者だった

幼い頃から、人間が人間を生むという営みに恐怖を抱いて生きてきた。

この世界に新しい人間を生み出すのは暴力ではないかと思う。たまに幸せを感じることもあるが、それを考慮してもなお、生きることは苦しいと思うからである。それなのに、ものを感じる主体を新しく生み出してしまって本当に良いのか。なぜ出産が喜ばしいことだとされているのか、ずっとわかっていない。

せめて、生まれる前の子供に「生んでもいいですか」と訊けたらどんなに良いかと思う。わたしも生まれる前に訊かれたかった、訊かれたら「いやだ」と言いたかった。わたしは、できることなら生まれたくなかった。生まれ変わったら何になりたいかと訊かれたときには、「生まれ変わりたくないし、絶対生まれ変わらなきゃいけないなら意識のないものがいい」と答えてきた。

それに自分の周りには、死ぬことを嫌がったり先延ばしにしたがったりする人間が多い。人は今の所かならず死ぬので、現時点では、人を生むということは同時にその人の死をも生み出していることになる。そこで、死にたくないと言っている人間が子供を生んでいるのがどういう理屈なのかよくわからない。自分の子供は死への恐怖を抱いても構わないということなのだろうか。

じっさい、周りの友人は普通に出産をする。しかもそれは祝われており、褒め称えられてさえいる。なぜ? 彼/彼女らはそれぞれの生に満足していて、わたしは自分の生に満足していない、それだけの違いなのだろうか。

そうして生きていたある日、川上未映子『乳と卵』に出会った。少し長いけれど、引用する。

 もし、わたしに生理がきたら。それから毎月、それがなくなるまで何十年も股から血がでることになって、それはすごいおそろしい。それは自分でとめられず、家にもナプキンはないし、それを考えるとブルーになる。
 もしも生理がきてもお母さんにはいうつもりないし、ぜったいに隠して生きていく。だいたい本の中に初潮を迎えた(←迎えるって勝手にきただけやろ)女の子を主人公にした本があって、読んでみたら、そのなかで、これでわたしもいつかお母さんになれるんだわ、感動、みたいな、お母さん、わたしを生んでくれてありがとう、とか、命のリレーありがとう、みたいなシーンがあって、びっくりしすぎて二度見した。
 本のなかではみんな生理をよろこんで、にっこにこでお母さんに相談して、お母さんもにっこにこであなたも一人前の女ね、おめでとう、とか。
 じっさにクラスでも家族みんなに報告して、お赤飯たいたとか食べたとかきいたことあるけど、それはすごすぎる。だいたい本に書かれてる生理は、なんかいい感じに書かれすぎてるような気がする。これを読んだ人に、生理をまだしらん人に、生理ってこういうもんやからこう思いなさいよってことのような気がする。
 こないだも学校で移動んとき、あれは誰やったか、女に生まれてきたからにはぜったいにいつか子どもを生みたい、と言ってた。たんにあそこから血がでるってことが、女になる、ってことになって、女としていのちを生む、とかでっかい気持ちになれるんはなんでやねん。そして、それがほんまにいいことやってそのまま思えるのは、なんでやろ。わたしはそうは思えんくて、それがこの厭、の原因のような気がしてる。こういう本とかを読まされて、そういうもんやってことに、されてるだけじゃないのか。
 わたしは勝手におなかが減ったり、勝手に生理になったりするような体がなんでかここにあって、んでなかに、とじこめられてるって感じる。んで生まれてきたら最後、生きて、ごはんを食べつづけて、お金をかせぎつづけて、生きていかなあかんのは、しんどいことです。お母さんを見ていたら、毎日を働きまくっても毎日しんどく、なんで、と思ってしまう。これいっこだけでも大変なことやのに、そのなかからまたべつの体をだすのは、なんで。そんなことは想像もできひんし、そういうことがほんまにみんな、素晴らしいことやって、自分でちゃんと考えてほんまにそう思ってるんですかね。ひとりでおるとき、これについて考えるとブルーになる。だから、わたしにとっていいことじゃないのはたしかやと思う。
 生理がくるってことは受精できるってことで、それは妊娠。妊娠というのは、こんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるということ。そのことを思うと、絶望的な、大げさな気分になってしまう。ぜったいに、子どもなんか生まないとわたしは思う。

これは『乳と卵』の、緑子という11歳の女の子がノートに書いた文章である。わたしは高校生の時にこの部分を読み、それ以来、自分の一番の理解者は緑子だと思うようになった。

生まれ変わったらまたこのクラスに生まれたいね、みたいなことを言ったあの子や、将来子ども何人ほしい? って訊いてきたあの子、それに対して2人がいいなって言ってたあの子、また、将来子どもを産むときに困るからという理由で様々なことを制限してきた母とは違って、緑子だけは自分と同じ世界にいるような気がした。そして、緑子という人物を書いてくれた川上未映子にも信頼に似た感情を覚えるようになった。それからのわたしは、彼女の書く本を全部買った。生まれてきてしまったことが本当につらいと思った夜には、よく彼女の本を開いて、独特のリズムの中を漂ったものだ。

そして時は流れ、2019年、『乳と卵』の続編である『夏物語』が刊行された。もちろんわたしはこれも買って読んだ。

『夏物語』読後の絶望――また、誰もいなくなった

以下は、『夏物語』読後の自分のツイートである。

簡単に言うと絶望していた。
人を生むことに対してかなり慎重派だった「夏子」(緑子の叔母にあたる人物)が、あまりにも曖昧に思える理由で子どもを生むことを決め、しかもそれが物語全体の結末だったからだ。

帯には「圧倒的感動」と書いてあった。
どこが?(本当に訊きたい。どこが感動ポイントでしたか?)

感想を検索すると「こんなこと考えてみたことなかった〜」みたいなやつがあった、しかも女性の感想。ほんとうに信じられなかった。これを考えずに生きていられる女性にどうやったらなれるのか知りたかった。でもこれを考えなかったからこそ子供が生めたという人がけっこういるのかもしれない。(考えて生んでいる人もたくさんいると思っているけれど)

またもや世界から疎外された気がした。緑子はいなくなってしまった、緑子をあんなふうに書いた人も、もうこの世にはいないのだと思った。

そんな『夏物語』の中にもわたしと近い人物がいて、それは「善百合子」という女性だ。

「ただ、弱いだけなのかもしれないけれど」善百合子は頼りない笑みを浮かべて、そして小さな声で言った。「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

わたしにはこの言葉の意味がとてもよくわかる気がした。善百合子を描いてくれたこと自体は心から嬉しかった。
だからこそ、そのあと善百合子に対して夏子が発した言葉や取った行動が本当にほんとうに許せなかった。引用もしたくない。今読み返しても腹が立つ。生むと決めた人独特の傲慢さを煮詰めたような表現だ。(この表現ができるところが、川上未映子の凄さだと思うのだけれど)

今思い返すと可笑しいことだけれど、『夏物語』読了直後のわたしはなんだか川上未映子に裏切られてしまったような気がして、インスタグラムのフォローを衝動的に外したりもした。勝手に信じたり親近感を抱いたりしていたのは自分なんだけどね。でも実際に川上未映子は、『乳と卵』と『夏物語』の間に子どもを生んでいる。この人が子どもを生むことを決めたのも夏子のような曖昧な理由だったらどうしよう、と思ったら本当につらい気持ちになってしまったのだ。

生まれてしまった苦しみを共有できていると思っていた人がいつのまにか子どもを生んで親になることはこれまでにもよくあった。なぜ、あんなに苦しいと言っていた生を新たに生み出そうと思ったのか。その理由を聞いて納得できたことはまだ一度もない(そういうことを訊ける関係性に置いてもらっているのは幸福なことだ)。そしてこういう経験は、これからも何度もあるのだろう。誰も悪くない、とてもつらい経験だ。(そう、たぶんわたしは本当のところでは子どもを生む友人たちを心から理解したいのだし、もっと言えば、自分が生まれてきたことを正当化できる理由が知りたいのだと思う)

自分の中の反出生主義と向き合いたい

『夏物語』を読み終えて数日間は心が重いままだった。この、あまりにも苦しい読書体験を経て、わたしはそろそろ自分の中の思想と向き合わなければならないのかもしれないと思い始めた。

『夏物語』の参考文献には、デイヴィット・ベネタ―の『生まれてこなければ良かった:存在してしまうことの害悪』が挙げられている。ベネターは「反出生主義 anti-natalism」の論客である。反出生主義は、ごく単純に述べると、子どもを生むことに対して否定的な立場を取る思想のことである。
わたしが『夏物語』を読み終えたのは10月初旬のことだが、その頃、奇しくも『現代思想』11月号においてベネターを中心として反出生主義が特集されると知った。

自分の中で「生まれてこなければよかった」「子どもを生むことは悪」という考えが当たり前すぎたので、それと似た思想とされる「反出生主義」についての論考をわざわざ読もうと思ったことは一度もなかった。
でも、ここらへんで一度向き合っておかなければいけない気がした。『夏物語』で動揺してしまったのは、自分の中での確固たる思想というか、思想の根拠みたいなものが揺らいでいる証なのではないかと思ったからだ。そこで、『現代思想』を購入して様々な論者の主張を読むことは、自分の考えを相対化して捉え直す上で有効な手段だと思えた。

ベネターの「他人事感」にイラつく

『現代思想』を読みはじめてすぐに気がついたのは、「ベネター関連の文章には、やたらイライラしてしまう」ということだ。わたしはどちらかというとベネターの思想と近い考えを持っているはずなのに、ベネター本人の主張に、どうしてこんなにイライラするのか。

ベネター自身の主張やそれに対する様々な人の反論を読み進めて気づいたのは、「ベネターの文章やそれを論理的に批判しようとしている人の文章には、なぜか他人事感がある」ということだ。
それは果たしてなぜなのか――最初は、森岡正博が言うように、ベネターの議論が「哲学的なパズル解き」にとどまって、実存的な問題として捉えきれていないからなのかな、と思ったが、それだけでは説明しきれない気がする。

具体的には、(ぜんぜん論理的な説明ができないのだが、)以下のような感想を抱いてしまうのだ。

なんというか、わたしたち女は生理のたびに、なんでこんなに痛い思いしないといけないのか、出産というのはこの苦しみと引き換えになるほど価値のあるものなのか、ということを少女のときから月イチでずっとずっと考えているというのに、いまさら分析哲学で論理的に示してドヤ顔されてもな、みたいな感じがするのである。

じっさい小手川正二郎は、ベネターの反出生主義が子づくりにおける現実の難しさを誤った方向に逸らしてしまうと指摘している。わたしもそれ自体には賛成できるのだが、この指摘の根拠として述べられている内容はわたしの感覚とはあまり重ならなかった。

『現代思想』をぜんぶ読んでみても、ベネター周辺の議論に感じた「他人事感」の正体や原因はよくわからないままだ。
しかし、このような「他人事感」を抱くと同時に、『夏物語』やそれを著した川上未映子に対する自分の捉え方が変容してきたのがとてもおもしろかった。

全然わからない、けれども

結局『現代思想』を読んでも自分の立場をクリアにすることはできなかった。むしろ、ベネター自身の主張に対してネガティブな感想を抱いてしまったことで、より混乱したような気もする。

しかし、ベネターの反出生主義に対する様々な反論を読むことで、自分の中でけっこう幅をきかせていた反出生主義的な部分に対して、自分で反論を加えることが可能になったことは収穫だった。自分の考えについて、これからもっと深め、広めてゆく価値があるように思えた。

『現代思想』を読んだ中で、今のところ自分が取り入れられそうな考えは、

佐々木閑が仏教的視点から絶対的真理であると述べる以下の考え方
「生きることを苦であると自覚した人にとって子供は、自己をその苦しみの世界に縛り付けるくびきとなるので、作ってはならず、作ったなら捨てねばならない」(つまり、ベネターのように子供のことを考えるのではなく、自己のことを考えた結果としての反出生主義)

または逆卷しとねが紹介している、ダナ・ハラウェイの「非‐出生主義者 non-natalist」的立場

の2つである。

そういえば反出生主義の文脈でベネターと同じくらい有名なのがシオランだと思うが、わたしはシオランにはイラついたことがない。それはなぜなのだろう?
木澤佐登志の述べるところによると、シオランは反出生主義を「ひとつの個人的経験」と捉えているらしく、そこが関係あるのか?(ベネターは割と宇宙的視点に立っている)
シオランに関する議論も勉強してみなければならないと思った。(他の反出生主義者だと、ショーペンハウアーにもちょっとイラついたことがある)

それから、わたしが「子どもをつくること」を一般的に忌避してしまうことに関連して、これまで自分が検討してきたのとはまったく別の視点からヒントを与えてくれそうなのが、古怒田望人が論の中で紹介していたリー・エーデルマンの「子供なるもの the Child」概念だ。
エーデルマンは、逆巻しとねの論においてはハラウェイと並べて論じられていた。
最近なんとなくクィア関連の議論がわたしに新たな糸口をもたらしてくれるかもしれないという気がしていたが、『現代思想』を一通り読んでみてその予感がますます確かなものになってきた感じがする。

そして、いくつか自分自身の認知パターンに気づくことができたのも収穫であった。
まずは島薗進が、ゴータマ・ブッダが自分の誕生と引き換えに母親を喪っていることを引き合いに出して、仏教においては生まれることと害することが結びついているということに言及していた。このブッダの境遇は自分と少し近いので、自分の反出生主義的な考えは、生まれついた環境にも影響されているかもしれないと思った。
さらにベネターの思想について「他人に害悪を与えてはならない」という消極的義務の優先性が前提となっていることを小手川正二郎が指摘している。これは確かにそのとおりかもしれないと思ったし、この消極的義務の優先性が自分の中にも巣食っていることに気がついた。「他人に幸福を与えなければならない」という積極的義務を優先させるという生き方もあるのだ。

現時点でのわたしの考え

ほとんど個人的メモのような記事になってしまったが、現時点でのわたしの考えをまとめて終わろうと思う。

  • 自分の思想はベネターとは少し違う気がする(何が違うのかはまだわからない)
  • 「出生主義」でも「反出生主義」でもない立場を探りたい
  • もっと勉強することが必要である
  • 川上未映子のインスタはフォローし直そうと思う

こんな感じかな。
とりあえず今は、みんなの『夏物語』の感想をきいてみたいなあ、と思えるようになった。大きな進歩である。

大前粟生『回転草』

ほんとうに羨ましい、と思った。わたしが置いてきたもの。思春期の夜、溢れ出して止まらなかったもの。眠りを妨げたもの。無茶な恋愛を引き起こしたもの。「どうせ誰にもわからない、あなた以外には」みたいなことを思わせる、自分の肋骨の真ん中にあり続けるしこりのようなもの。明らかに快の感覚を孕んだ、鬱陶しいもの。果てしなく昇って天井で崩折れるような言葉、ショッキングピンクのペンでしか書けなかったもの。

失いたくなかったのに、いつの間にか失ってしまったもの。

この本にはそれがあった。どのお話の中にも。ほんとうに羨ましい、とわたしは思った。

大前氏はどうやってこれを持ったまま大人に? わたしはもう遅いのだろうか? もしかして、取り戻せるだろうか?

いつまで経っても解決しない和音。ぜんぜんダイナミックじゃない日常。でも毎秒はミルフィーユで、その中にひっそりと、でもかなり粘り気をもって挟み込まれるクリームみたいなメッセージを受け取りたいとわたしは思う。また、再び。どうやって?

ひとは注意深く生きられなくなる。わたしは注意深く生きられなくなった。と思う。それはある意味では、いや、もうほとんど完全に救済だ。そこから抜け出すのはあの、苦しみを薄めてグラニュー糖を足したような液体の日々に舞い戻り、浸ることでしかない。そうだとしてもクリームを? その覚悟があるのか? そうだ。

そう思って眠った昨晩、夢に見た巨大な緑いろの虫、の、ふくらんだおなか。

あの感じだ。

うまく言えないけれど、巨大な虫の腹の感じ。あれを見たときの、わたしの思春期の不快な美、快い鬱屈みたいだった。夢の中の自分はそれを見ても逃げなかった。しっかり見ていた。

よかった。

では今日、現実の自分はどうだろう。「そういうもの」にいつ出会ったとしても、ピントを合わせよ、刮目せよと、自分に言いたくなった。もう一度、ショッキングピンクのインクを使えるようになるために。ぜったいに。

君が眺めていないとき、月は存在するか?


この質問をいつも投げかけてくれた彼女のことをわたしが思い出したのは何年ぶりのことだろう?
今いったいどこにいるのかまったくわからない。何度かメールしてみたけれど返事が来なくて諦めてしまっている。

わたしが思い出さない間、彼女は存在したのだろうか?
わたしが思い出す限り、彼女は存在するのだろうか。



これを久しぶりに考えているのは昨日マルクス・ガブリエルについて少し読んだり観たりしたからで、彼によれば世界以外の全ては実在する。
それはどこにあるのか? 存在はすべて、どこかに irgendwo ある、という。

あなたが思い出す限りわたしは、身体が死んだあとも、どこかにありつづけることになるのかな、それはちょっと怖い。
でもそう考えれば「生きなければいけない」という責任の重みがだいぶ軽くなるような気もする。



「生きなければ…」という気持ちは、わたしが幼少期から背負い続けてきたものだ。
父親が死んだ分、わたしはどれほど死にたくなっても母のために生きなければいけないと思ってきた。

その気持ちがかえって死にたみを高めた。それは父親の死に方こそが自殺であるためだ。
「お前が生きていればわたしは自殺できたのに」という怒りがずっとわたしを内側から蝕み続けた。



最近はあまり具体的に死ぬ手段を考えたり道具を買ったりしなくて済んでいるのは、結婚する直前に父の墓参りに行ったら「死ぬなら結婚前にしろ」みたいな幻聴がきこえたのも一因としてあるが、何よりも、「生き続けなければならない」という責任感がだいぶ薄れてきたのが大きい。

なぜ責任感が薄くなったかというと、母が以前とは別人のようにわたし無しで楽しそうに暮らしており、また夫はそもそもわたしがいなくても絶対大丈夫そうな人間だからだ。



それに加えて「誰かが思い出す限りわたしはどこかにありつづける」と考えることで、もっと楽になりそうな気がした。
なぜ今までそう考えられなかったのか?
それはおそらく、わたしの実家では長い間、父親のことが「なかったこと」「触れてはいけないこと」のように扱われていたからだと思う。

娘の結婚に反対していたらしい祖父母が亡くなり、わたしも母もいろいろと学ぶ中で、今では少しずつ父の話題にも触れられるようになってきた。
まあ今でも親しみとかは全く持てないけれど、自分の親についてとりあえず話せるというのは良いことだと思う。



自分や他人の自殺を止めるのは本当に難しいよね、わたしはぐうぜんまだ生きているというだけ。
ただ、「死んでも忘れないよ」っていうのは、「死んだら悲しいよ」っていうのと実は同じなのかもしれないと思った。
一番自殺したかったときわたしは、死にたいというよりもむしろ、自分を忘れ去ってしまいたかったし忘れ去ってほしかったのだ、多分。



※ ここを読んでくれている高校のお友達で、冒頭の「彼女」が誰だかわかって、そして彼女の現況をご存知の方がおられたらそっとわたしにご連絡いただけると嬉しいです。

▼ マルクス・ガブリエルのベストセラー本↓

▼ 國分功一郎も、死者との関係について似たようなことを言ってた気がします(関係性が変わるだけでいなくなるわけではない、みたいな)
どこで言ってたかは忘れた……この本じゃなかった気もするんだけど(100分de名著『エチカ』だったかも)、これは「意志」「責任」にまつわる本で純粋におすすめなので載せておきます。

死んでしまっているかもしれない

何かを書くというのは訓練のいることなんですよねえ。前のブログをやめてしばらくしたらすぐに141字以上が書けなくなったし、読むのも大変になりました。

カウンセリング受け始めたのをきっかけにnoteをやって、その後カウンセリングやめるのと同時にnoteもやめて(やめたすぐあとにみんながnote始めたからちょっと時期ずれで寂しい)このblogを始めて今、ようやく補助輪付きの自転車位の感覚で書いている。

死ぬほど書きたいことができたときにちゃんとそれを書けるよう、練習というか、筋トレをしているイメージだろうか。

ある時期わたしは、自分が本当は既に死んでしまっているのではないかという妄想に取り憑かれていて、そしてなんだか、どうしてもそれを書きたくて、書かないと死ぬという感じになって、毎日キーボードの上でストラグルしてた時期があった。

だけど、そのとき偶然読んだ平野啓一郎の本がかなり似た設定で始まったのだ。それでなんだか疲れて中断してしまっている。

平野啓一郎の作品は本当にすごく好きなんだけど、同じゼミで同じ教授に学んでいたということがまざまざと感じられてしまって素直に読めない。それがめちゃくちゃ悲しい。自分の運命を呪うとすればこのことが一番に来る。そのような作家とほんのちょっとでも発想が被ったのは、喜ぶべきことかもしれないが、やっぱり複雑な気持ちなのだ……わたしは、あの偉大な作品を前に、きっと跪いてしまった。

でも今この記事を書いていると、書き出しの設定こそ似ているかもしれないが、その後の展開は全く違うのだし、そもそも自分が本に求めるのは物語というより語り口であるのだから、またそろそろ続きを書いてみても良いのかなあという気持ちになってきた。

それだけを言いたくてこの記事を書きました。

やはりわたしにとってブログという場は、なんでも話せる信頼の置ける人間のような存在なのだと思う。

それはすなわち記事を読んでいるすべての人間を、あるいは読む可能性のあるあらゆる人間をそのように信頼しているということなのでしょうか?

いやいや違うはず、そんなわけないよねえと思う。なんで全体に公開してる場が自分にとってこんなに親密な場になるのか本当によくわからないですね。まあいいや。

千葉雅也『意味がない無意味』

◆ プラハ行きの機内にて

3月末、演奏のためにプラハに行くことになり、久しぶりの国際線に乗ったものの心の中はあまり愉しくはなかった。
プラハという歴史的な街について一冊の本も読むことなくそこへ行こうとしていることへのどうしようもない罪悪感、そしてこれから演奏する作品を自分の納得のゆくように解釈できていないまま本番を迎えようとしていることへの焦燥感が、KLMのジェット機で関空を出発したばかりのわたしを苦しめていたのだ。

「勉強していないこと」へ謝りたくなる気持ち。それが相手へのrespectを欠く行為であるような感じ。
旅行するときや、演奏するときばかりではない。
コンサートホールの客席で、映画館で、美術館で、芸術と呼ばれるものに向き合うとき、いつも齎されるこの「申し訳のなさ」。
果たしてこの感覚は、本当に正しいのか? あるいは、持つべき感覚なのだろうか。

そんなことを漠然と考えていたわたしが、プラハ行きの飛行機でこの本を読むことができたのはかなりの僥倖だった。
なぜなら、わたしはこういう種類の本を読むと高確率で救われるからだ。よく、読みやすい種類の哲学の本を自分勝手に読んでは涙を流して感動している。
頭脳も性格も哲学にじっくり取り組めないたちで、それが悲しいこともよくあるけれど、だからこそ簡単に救われることができる。短所はときに長所になるのだ。

◆ 非人文学的 Non-Humanities

この本には数々のテーマが短篇集的に収録されているが、今回、初めにわたしを感動させたのは「思弁的実在論と無解釈的なもの」に出てくる〈非人文学 Non-Humanities〉という概念である。

「非人文学の方へ、それは、飽くことなく解釈に解釈を重ねることを絶対的に中断することに他ならない。(中略)何かを〈置き換えること〉一般としての解釈がまったく無効になる。秘密を秘密としてどのように取り扱うかが問題となる」(p.150)

なるほど、解釈を中断するという選択肢があるのか、と思った。

半ば強迫的に解釈を目指してしまうこの癖!
なんとか解釈し、わかりやすく噛み砕き、他のなにかに喩えてみせることが絶対に良いという観念のもとでこれまで生きてきたのだ。解釈することが学ぶことであるような感覚もあった。人文学は確かに解釈ばかりしている。

しかしそれは少し苦しい、つらいことなのだ。解釈することの意味を見失いそうになっては、必死で異なる側面から別の意味を見出す(つまり、別の層で解釈をし直す)。
その繰り返しが人生ならばいっそやめてしまいたいとすら思うこともあった。

では、解釈を重ねることを絶対的に中断する、とはどのようなことなのか?
このときのわたしは、一瞬でも良いから解釈のループから抜け出したい、そういう気持ちだった。「街の歴史を自分なりに解釈し、自分の人生の中に意味付けなくてはならない」「フレーズの持つ意味を理解して表現しなくては」このような強迫観念から一刻も早く逃れたかったのだ。

どうやって非人文学の方へ?

オブジェクト指向存在論的なやり方として挙げられている「ものの列挙」「思考停止による思考」という単語。
それを見て、わたしの頭には「演奏がものすごくうまくいったとき」にだけ得られる次のような感覚が思い浮かんだ。

(わたしの感覚的な身体は交通事故に遭った瞬間のように宙に浮いていて、遠いところから奏者と指揮者と観客と、そして音を眺めている。 音がただ音としてそこに、一瞬の奇跡のように配置されて「ある」。 音楽にはっきりとした触り心地がある。 小節線や音符の旗のような、音を時間の中に意味づけるための記号がすべて消え失せているし、作曲された当時と今とを隔てる時間の壁もなくなる。 音楽そのものがあまりにも当然に目の前にあるので、どうにか意見をすり合わせるために言葉で交わした議論やたとえ話がすべて馬鹿らしく思える。 何かが急激に腑に落ちる。今となってはうまく言い表せないけれど、「それがただそこにあるということが本当に起こるのだということ」がわかるような。 そして、ここがどこで自分が誰なのか、隣の人が誰なのか、また、今自分が演奏しているのがいったい何なのかということは、あまりわからなくなっている――)

これは多分、「人文学」よりは「非人文学」に近い感覚だと思う。あらゆる解釈を嘲笑うようなこの体験の中では、「置き換え」が一切起こっていないような気がするのだ。

◆ 非人文学と人文学との並立

では、このありありとした感じを常に目指せばよいのだろうか?
それはきっと違う。解釈が必要なときだってあるはずだと思う。

そもそも、ものを解釈する癖というのは人間として生きている限り誰にでもあるのだ、生きているうちのほとんどの時間、周りを取り囲む世界に対してある特定の意味を見出し、何かしらの解釈をしていなければ人は気が狂ってしまうとわたしは思う。
(「意味の有限化」は、本書では「解釈」とは別のこととして語られているのかもしれないが、わたしにとってその2つはかなり近い行為であると思う)

しかし、そうして生活するちに、解釈には終わりがないことがわかってくる。それはあまりにもしんどい。無限回廊だ。中心に何があるのかわからなくなってくる……


今思えば、わたしはずっと次の2つの間で揺れてきた。

「知識がなくても音楽が良ければOK」vs. 「演奏を裏付ける知識こそが重要」

前者は後者からするととても暴力的な感じがする、だけど、あの「うまくいったときの体験」をしてしまったら、後者の考えだけに立脚するのはバカバカしく思えてしまうのだ。
(音楽が「良い」というのもひとつの解釈なのかもしれないけれど、この良さというのはもっと圧倒的な体験を齎す感じ、というか?)


そこで、本書が提案してくれるのが「非人文学と人文学との並立」というものだ。

因果性と善悪がたしかに作動している(人文学的な)状況が、同時に、無因果的で無倫理的な(非人文学的な)面を持っていることを認めることが提案される。

わたしはこの提案にこそ本当に救われたのだ!

この社会を、非人文学的な無解釈的なレイヤーと人文学的な解釈的なレイヤーとで、二重に考察できる、そのような可能性があるということ。
本書によると、わたしたちには時空的な制約があるから、関係−構築の解釈を無限に続けることはできず、解釈はいずれ中断される。
その中断は二重の意義を帯びており、一方では終わらない解釈の再開のための中断であり、他方ではわたしたちの有限性を超えたところにある真正なる中断であるという。後者については次のように述べられている。

「最後の答え(必然性)を与えるのではなく、絶対的に事実的である何かを前にしての〈思考停止としての真理〉に直面することで解釈を終わらせる、そのような真正の中断」(p.159)

わたしはこれを読んで、ほんとうの中断のときに目の前にあるのが「絶対的に事実的である何か」であるというのが嬉しかった。
無限回廊のその先に、最後の最後にやっと見える何かがあるのなら、報われる気がする。それが、ひどく余所余所しい無関係な他者であっても、理解に苦しむような暴力的な何かであっても……いつか、「そうだったのか!」と思いたいのかなあ。


先程の引用に続く次のことばを読んだとき、わたしはこの文章で一番泣きそうになる。

「おそらくは、この後者の面に、諦めや赦しの可能性が宿っている」(p.159)

「諦めや赦しは、解釈を続けながら同時に、無因果性と無倫理性のリアリティを(しぶしぶでも)認めるのでなければ、不可能ではないだろうか」(p.159)

そうだ、そうなのだ、としか言えない。

諦めや赦しは善悪を超えている。そして善悪はいつも必ず解釈側にあり、しかし解釈側があるからこそ無解釈の側で諦めや赦しが発生する。

無限の解釈修行を続けながらも一瞬、無解釈の世界を見遣ること、または無解釈の世界に迷い込むこと、わたしの体験した「うまくいったときの感じ」はきっと諦めや赦しと同じ境地にある何かだったのだ。だって諦めも赦しも、あれと同じようにとても気持ちいいのだ。

◆ そういう考え方もあるよね

結局、プラハの街についてはあまり勉強せずに行ったおかげで、目に映るものをそのまま美しい、と思える機会が多かった。
演奏も少しはうまくいった。少しだけあの世界が見えそうなときがあった。


本書には「非人文学/人文学」の他にも、何かを並列させるという考え方が頻繁に登場する。

オーケストラがプロとアマチュアの混成であり、さらに日本人とチェコ人とチェコに住む外国人との混成であったこと、非・被災地で被災地の復興を願ったということ、いろいろなことが複数の極を持つような今回の旅の初めにこの本を手にとって本当に良かった。

このようなことに関しては「分身」という考え方も素敵だし、役に立った――これ以上は長くなるので、本を読んでください。


帰りの飛行機で、窓の外をふと見ると柔らかそうな雲がゆったりと広がっていた。
こちらが雲を何の形に捉えようとも、雲はわたしを何にも喩えることがないのだろう。そのことにわたしはなぜか安心した。

そしてなぜか、ハイデガーを研究していた友人の「そういう考え方もあるよね」という口癖を急に思い出した。

2つ以上のレイヤーが並列していない限りそこに間(or 差, 距離?)ができることはない。そして、そのようなものがなければ見えてこない何かがある。
そんなことは、きっと多くの人がずっと昔から言っていることだろう。でもわたしはそれを、今回の読書と旅を通してやっと実感できたように思う。

「そういう考え方もあるよね」というのは、今思えば偉大な言葉だった。

村上龍『愛と幻想のファシズム』

夫に勧められて、貸してもらって読んだ。どうしようもない気持ちになるけれど、面白いよ、と。


村上龍を読むのは何年ぶりだろう?
たしかに面白い。
断定口調の短文が読点で連なってゆく文体は、スピード感と重みを同時に伴い、有無を言わさぬ強さを持つ。


しかしながらはじめのうちは、
「登場人物のうちの誰にも感情移入できない小説だなあ……」
そういう違和感があった。


それが、上巻を終えて下巻に入る頃には、
「わたしにとって共感できる登場人物が存在しない、ということではない」
「わたしの中にすべての登場人物が存在するのだ! だからある特定のひとりに感情移入することができなかったのだ」
と気がついた。


つまり登場人物たちは物語の中というよりもむしろ、読み手である「わたし」というひとつの主体の内側にいて、結託を目指し、分裂し、憎み合い、殺し合っているように感じる。
そして、物語が進むに連れてじわじわと、わたしという主体がただひとつの質感にまとめられてしまうような感覚を覚える。


小学校の図工の時間、パレットにある絵の具をすべて混ぜてみたあの感覚!
この小説を読んでいるときに感じる粘っこい不快感の正体はこれだ。


はじめは多彩だったはずの内的世界で、複数の色の輪郭が互いに溶け出し、曖昧なマーブル模様が生まれてから徐々に一色の暗い色になる。


そうして最後のページに辿り着いたとき、
なんということだろう!
一瞬だけ輝く鮮やかな色があるのだ。


自分にとって、フィクションを読むということの意義を感じさせる作品であった。

町田康『スピンクの笑顔』

スピンクシリーズの最終巻。

このシリーズは、スタンダードプードルのスピンクによる一人称で語られる。
スピンクは犬なので自分で文字を書くことはできない。
そこで、主人公・ポチ(=町田康?)の脳に直接語りかけることによってこのシリーズを執筆しているのだ。

スピンクという犬は実際に町田康と共に暮らしていて、2017年6月27日にこの世を去った。


▼町田康による鎮魂歌もある。

本の最後に語り手自身が亡くなってしまう、そしてそれが現実のことであるというのをわたしは読む前に知っていた。
その上でこれを読み始めるのはやはりつらい。

そういうわけで、買って以来なかなか手を付けられず積んであったのだが、ようやく今月読むことができた。


これまでのスピンクシリーズ(『スピンク日記』『スピンク合財帳』『スピンクの壺』)を通して、わたしたち読者が長く親しんできたスピンクのあの文体。

最終章はついに、それではない、別の語り口で綴られる。
その口調は、取り乱すことなく、優しく丁寧であり、それでいてそこはかとなく寂しく、スピンクへの気持ちが言葉の端々に滲み出るようなもので、わたしはどうがんばっても泣くのを堪えられなかった。


誰かの死に際してわたしたちには大きな悲しみが訪れる。
それは死者自身に対してではなく、遺された自分や誰かに向けられた悲しみだ。
親しい者の死自体ではなく、それによってもたらされた、自分たちのこの現実が悲しいのだ。

そしてその悲しみは、いつも穴の形をしている。
誰か近い人が死んだとき、自分の身体や、自分の部屋や、見慣れた景色に穴が開くのをわたしは感じる。
昨日まであったものが今日はそこにない、そういう種類の穴。

「スピンクがいなくなって、家の中が静かです」
帯に採用されたこの一文が、それをいちばんよく表している。


今回スピンクという、一度も直接会ったことのない犬が死んで、久しぶりにその穴が自分の真ん中にぽっかりと現れた。
そういう穴は、誰かが死んだら必ずいつもあく。
けれども、それを通して自分の中に吹き込んでくる風の温度や質感は、不思議なことに死者によって異なる。
この本の読後わたしの中には、驚くほど穏やかなパステルカラーの風が吹いた。


死者に花を手向けたくなる気持ちが、自然に生じたのははじめてのことだった。
まっすぐに立つ、茎の細い、一輪の黄色い野花がいい。
あのピンク色の耳と飄々とした性格に、それがとても似合う気がした。


▼参考:その他のスピンクシリーズ