deciliter『白昼夢、或いは全部勘違い』

これは友人のブログが書籍化されたもの。ちゃんと手に入れておいてよかった。もう在庫がないみたいだった。世の中にそういうものは意外と多い。というより、そういうものが基本だったのに最近はそうじゃないものが増えてきただけなのかもしれない。

著者曰くこれは「ラブレターであり、日記」。大森靖子の歌詞の解釈を中心としながら紡がれてゆく日記、といえばいいのかな。そう、彼女とは大森靖子を通して知り合った。でもわたしは彼女と知り合った当時の記憶がすっぽり抜けているので今となってはどこでどうやって最初の会話を交わしたのか全く思い出せない。

思い出せないことをあまりにたくさん抱えすぎているわたしはこれまでをきちんと生きていなかったのだろう。今のこともいずれ忘れてしまうのだろうな、という諦めが強い。そして逆に、彼女はちゃんと生きすぎているように思う。彼女の世界はびっくりするほど鮮やかなのだろうなっていつも想像する。世界からぜんぜん逃げていない。すごい。

その上で、彼女のすごい点は世界の中でも特に「人」のことをまっすぐ見つめることができるところ。まずわたしは他人の目をぜんぜん見られないのだが、彼女はけっこうわたしの目を見つめる。物理的に見るだけではなく、自分の過去から現在まで、一応ちゃんとやったことと全然ちゃんとやってこなかったこと、ちゃんとやってないのにやったことにしていること、みたいなのを全部瞬時に見抜かれる気がしてめちゃくちゃ緊張する。そういう彼女の視線がこの本にめちゃくちゃはっきりあらわれている。彼女が大森靖子を見る視線、地元の友だちを見る視線、彼女自身を見る視線、など。

そして、「わたしは誰かの目さえ見ることができないのだから、誰かを存在として明確に捉えることなどほとんどできていないのだ」と思い知らされる。わたしは誰のことも愛することができていないのかもしれないし、誰かがわたしのことを愛してくれていてもそのことが全く読み取れていないのかもしれない。別にこの自分のあり方をどうにかしたいと思うわけではなくて、「こうではないあり方もあるのだな」と思わされるのだ。相対化。自分の人生がとても曖昧な色をしていることに気づくことができる。雨の日に家の中から見る、窓ガラスの水滴を通した外の景色の、あの色がわたしの人生の色だ、と思った。そして今気づいたのは、わたしの頭の中がちゃんとカラフルになるのは夢の中だけなのだ、ということ。あの極彩色の気持ち良い夢。わたしの夢みたいな世界を彼女は現実として生きている、たぶん。

私をちっとも好きになってくれなかった人は、きっと私のことで傷ついたり困ったりはしなかっただろうし、私の夫は私のことで傷ついたり困ったりしてくれるのだろう。傷ついたり困ったりしてほしいだなんて思えなくて、もしかしたら思っているのかも知れないけれど少なくとも言えやしなくて、自分のことで笑ったり泣いたりするのが許せない、自分のことが許せないのか相手のことが許せないのか、多分そのどちらもだと思うが、許せない。私が傷ついたり困ったりして、私のことで傷ついたり困ったりしてくれるであろう人はごく僅かで、「きっとこの人は私のことで傷ついたり困ったりする可能性があるだろうな」と思うことは信頼だと思うし、それによりいっそう傷つけたり困らせたりしたくないと思う。希少な関係性だ。そういうものを、大人になってから少しずつ得ることができた。ありがたい話だ。

「君に届くな」としか言い表しようのない気持ちのこと(2016-11-07)

この部分が特に強く印象に残っている。もちろんこれは大森靖子《君に届くな》の歌詞、

君が笑ったり 君が泣くのが
私のことだなんて許せない

を引用して述べられている部分だ。

「きっとこの人は私のことで傷ついたり困ったりする可能性があるだろうな」と思えるようにわたしはいつまでたってもなれていないし、「自分のことで笑ったり泣いたりするのが許せない、自分のことが許せないのか相手のことが許せないのか、多分そのどちらもだと思うが、許せない」という気持ちだけずっと大切に持ちつづけてしまっているなあと思った。

「自分のことで笑ったり泣いたりするのが許せない」という気持ちはすごく厄介なんだよね。たぶんわたしのこれは彼女のこれとは微妙に違うところにつながっていて、彼女の場合「自分が好きなものに自分の影響が出ることが耐えられない」というところにつながっているみたいだけど、わたしは「好きなものが自分なんかに影響を受けると知ったら急に嫌いになる」。この違いからして、本当にわたしは「ほとんど何も見えていない」ということを思い知らされるよね。

わたしは彼女の見ている世界を見ることはできないけれど、その彼女の「見ている様子」をわたしが見ることは……というよりも聴くことはできる。わたしはこの本に詰め込まれた彼女の文体を、つまり彼女の視線のあり方を音楽として聴きとり、それを通して彼女の見ている世界の色を想像する。

文章に限らず、私的な作品を味わうというのはいつだってそういう行為で、そしてほんとうにわたしはそれが大好きなんだ。それをさせてくれて本当に心からありがとう、という気持ちを込めてこれを書いた。

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