外に出ると空気が温かった。昨日からの急な気圧の下がり方はひどいし。
こういうしんどい日によくブログを書いている気がする。
生まれた季節への拘り、愛着。わたしの場合は5月生まれで、5月が大好きだし、季節の中では春が一番好きだ。
今思い返せば、本当に幼いときには、今のような気持ちはなかった。
ではいつから5月や春を愛し、その到来を楽しみにしていたのかというと、
それはシューマンの《子供のためのアルバム》の中の一曲、《愛しい5月よ、お前はもうすぐやってくる Mai, lieber Mai, bald bist du wieder da!》に出会ったその瞬間からである。
次に弾く曲として先生からこの曲を指定された日、楽譜を買ってもらい、家のピアノに座り、まじまじとタイトルを見たそのとき、わたしは一瞬で5月のことが大好きになった。
なんてきれいな言葉なんだろう!
月の名前に「愛しい」という形容詞を付けてよいのだということを、わたしはそのとき初めて知って、衝撃を受けた。
そして、そんな形容詞を冠された5月に自分が生まれたということを、心からうれしく思ったのであった。
先生がよく話してくれた、日本のそれとは全く違う、ヨーロッパの春。
暗い冬をじっと耐えたあとに生命すべてが歓喜する春、それを精一杯思い浮かべながら練習したことをよく覚えている。
その曲はほんとうに自分の知っている5月のイメージと違いすぎて、とても難しかったということも。
こんなに大切なことなのに、わたしはまだ、ドイツでの春の訪れも、5月のことも体験できていない。
いつか知らなければいけないと思っている。
イロニーとフモール、アイロニーとユーモアのことが未だに理解できていない。
シューマンの《フモレスケ》を分析しようとしていた頃、彼にとってのフモール(ユーモア)概念をわかろうとしてジャン・パウルを読み、その全然わからなさに挫折して以来今もわかっていない。
この前、國分功一郎がテレビで、昔の笑いは嘲笑がメインだったみたいなことを言ってた。
イロニーやフモールがいつから笑いというものと近づいているのかすらわかっていない。
笑いというのも哲学の中で大きなテーマだと思うが不勉強である。
とにかくこういう一連の概念、とても理解したいのに、理解できていなくてもどかしい。
またマーラーの交響曲第4番をやるにあたって、あの曲がフモール的であることはなんとなくわかっているのだが……フモール、イロニー、その全体像がわかりきらない。
この前コンビニに行くとおでんの香りがした。
大学時代、練習を終えて、凍えるような冬の深夜にコンビニに寄ったときのことを鮮明に思い出した。
一度も食べたことない食べ物が記憶の中で存在感を持つこともあるのだ。
編み物という行為について。
すでに存在する糸を編んで何かにしてゆくという行為は、すでに存在する思考を文章にしてゆくこととかなり近いと思っている。
リズミカルであることも共通している。
これは前にもどこかで書いた気がするが、わたしは何か文章を書く際に、筆記音の出やすい筆記具か、キーボードでしか書くことができない。
その音を聞きながらでないと、どうしても次が書けないのだ。
そういう自分の筆記音を聞いているとき、それを生み出している自分が、どこか自分でないような心地がする。
編み物がうまくいっているときにもそういう感覚があって、それがわたしにとっては心地よい。
小学生の時、一日遊び疲れて、帰る前のHRで連絡帳を書いているときの、
「これは誰が書いているんだろう? 誰がわたしの手を動かしているんだろう?」 という、毎日感じていたあの懐かしい感覚。
今度、友人と一緒に編み物をすることになった。
何人かの友人が編み物を趣味にしている。
一緒に編み物をしたいな、と思える人というのは、わたしの中では、一緒に何かを書いてもいいなと思える人にほかならない。
どうしても、書くことと編むことは似ているという考えから離れられない。