解離性同一性障害当事者的『ファイト・クラブ』初見の感想(2019/11/17追記)

前提

・映画『ファイト・クラブ』を初めて観た(北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』にて、本文を読むより先に作品をみるように書いてあったので……←本書の該当部分はこれから読みます、つまりこの記事を書いている段階では未読)
・わたしは解離性同一性障害(いわゆる多重人格)である(治療は中断している。他の人格が「乗っ取られる恐怖、消される恐怖」によって治療を拒否したためです)
・今、これを書いているわたしという人格の性自認は女性である
・酔っ払っているので本当に適当な感想です

最後まで観た感想

いや、それ全部すでにマーラがやってることだからね!(男性、かわいい)

なんかすごい革命やってしまったよ、て感じのラストだけど、マーラがすでにやってきてることばっかりだし!!!ってつっこみたくなった。

具体的にどういうことなのかうまく説明できないのだけど……たとえば、マーラを守るために主人公が道路で自動車を止める「いかにもかっこいいシーン」がラスト近くにあるけど、だいぶ初めの方のシーンでマーラは自動車がめっちゃ飛ばしてる道路にひとりで歩いて突っ込んで行ってしかも全然怪我せずに生き残ってしまっていたよね。あれがわかりやすい象徴なのかなと思う。

そういう意味で本当に、男性性が愛おしくなる、可愛らしくなるような結末だった。
しかも「これは僕の理性じゃないんだよ本能なんだよ〜〜〜」みたいなのがさらにウケる、かわいい。

こういう、「男性的なドヤ顔」に対して「かわいいよね」ってもはや笑えちゃうというそのこと自体に、最近は興味があります。

なんでそっちを消してしまったんだろう

消された人格(タイラー)ほんとうにかっこよすぎてどうしたらいいかわからなかった。好みだったのかな。暴力を受けてあげることの奉仕、みたいなやつの意義を感じた。男性的だと言われがちな暴力的なものごと(消された人格のほう)が実は女性的感覚に近いところに存在しているのではないかという予想。でもそうではなくて、もう一方の人格の被害(やけどとか)に感情移入して「いいな〜〜〜」って思ってるだけかもしれなくて複雑。わからない。とりあえず、二項対立はむりがあるということを思った。

結局は甘えたいし一番になりたいんだよね、というのが切実に伝わってくる

わたしと別の人格ちゃん(女の子も男の子も)は、おそらくわたしが得られなかった「親に対して甘える経験」を今経験しようと必死という感じがするのだが、この映画では「親に殴られる経験」を得ようと必死なんだろうなという感じがした(どちらの人格も)
それがすごく切なくて、、、

わたしの別の人格ちゃんのうち、女の子のほうはわかりやすい甘えたさんなのなが、それに対して男の子のほうはわざと怒られようとする傾向がとても強い。これがいわゆる男の子性というものなのかな、と思った。男性の、親に対する感情というのは本当に複雑だしある意味美しいのだな、と改めて思った。

観ないほうがよかったのかな…

解離の患者はできるだけ解離を扱ったフィクション作品から遠ざかるようにアドバイスする専門家もいる。

今回私は、これが解離を扱った作品だと知らずに観てしまった。。。まあ別に今のわたしは積極的に治療を受けようとしているわけではないからどうとでもなれという感じなのだが、注意して過ごしているひとは、しばらくは観ないほうがよいのかもしれないなあと思いました。

解離性障害でない人で未見のひとは是非見てください、アマゾンプライムでただで観られるので。

原作読みたい

好きな表現が多かった。文体とか言葉の選び方で本を選ぶ人間なのだが、映画を観ていて「セリフの言い回しがめちゃくちゃすきだな、わかるな」と思うことが多く、原作をぜひ読みたいと思った。また、わたしはそもそも一人称で進む物語が好きというのもあり、その点においても本当に原作を読みたい(買いたい)と思った。

ちなみに、「映画史的に重要作品である」ということが映画に全然詳しくないわたしにも感覚的によく伝わってきたので、原作とは別に映画としても本当に素晴らしい作品なのだと思う。

母親なるものの正体

たぶん「母親」なるものは清純なものではない、
その実態は、あのむちゃくちゃなマーラなのである。
そう、決して(神のように胸に抱いてくれる、性別を超越しかけている存在としての)ボブではないのだ!!

これがこの作品の重要なメッセージの1つではないかなと思った。

言い訳

酔っ払っているので本当に適当ブログです。この一個前の記事を自分の尊敬している方々にたくさん読んでいただけたりしたので、その次にこんな適当な記事をつづけて書いて申し訳ないのですが、、、まあ、自分のペースでやる次第です。ご容赦くださいませ。

夢の中で考えていたこと(2019/11/17追記)

映画を観終わってこの記事を書いて寝たあと、夢の中でいろいろ考えてしまっていた。その内容を追記する。

マーラも別人格だよね!?

マーラもひとつの人格にすぎないのではないのだろうか。そう考えると腑に落ちるところがとても多い気がする。(もちろん辻褄が合わなくなる場面もあるけれど、タイラーにおいてもそういう部分があるのだし……)

たとえば主人公が「またメッセンジャーをやっている」と感じる場面などは、人格同士のやりとりとしてかなりリアルに感じられる。

「父殺し」のヴァリエーション

名作と呼ばれるものの多くがそうであるように、この作品もまた、「父親」や「父親なるもの」との闘いを描いたものだと思う。そして、その父殺しのテーマが重層的に変奏されていく? のがこの作品の面白さだなと思った。

タイラーは父殺しの欲求を煮詰めたような人格であり、タイラーと主人公とのファイトはわかりやさく「父殺しの欲求とそれに対する抑圧とのファイト」なのだけれど、ここでそもそも双方が互いを父親的な存在だと見ているらしいのが面白い。さらにもう一つ大きな枠組みで見ると、偉大な父親としての資本主義社会、というのも描かれているし、たぶん他にもいろんなレイヤーでこのテーマが繰り広げられている、そんな映画。

ラストシーンで主人公とタイラーとマーラがいるビルも破壊されるのかどうか、そのあたりはあまり描かれずに本編は終わるけれど、たぶん破壊されるのだろう。あのシーンにおいて高層ビルが男根の象徴だとすると、「周りの高層ビルだけでなく、自分のいるビルも含めて爆破すること」、つまり自分自身の去勢らあるいは自分自身の中の「父殺しを欲する部分」の去勢?こそがたぶん「父殺し」の本当の完成なのだろうね、ということを考えた。このあたりが、テイラーが口にしていた「自己破壊」という言葉の意味なのかな?

ボブが名前を再獲得するやつ

計画の中で死んだボブが、死んではじめてメンバーから名前を呼んでもらえる、という部分。この展開どっかでみたことあるなあ、と思ってたんだけどやっと思い出した。「100分de名著」のカイヨワ『戦争論』の回で西谷修が語ってた、「世界大戦で死んだ兵士は、名もなき兵士として死んでいくからこそ英雄視され、死後は記念碑に名前を刻んでもらえる」というやつに似ているんだな。

「その銃、清潔なのか?」の尊さ

タイラーに銃を口内に突っ込まれ、今にも殺されそうだという危機的状況で主人公がつい抱いてしまう「その銃は清潔なのか」という疑問がわたしはとても愉快に感じられた。

主人公の「脳内台詞」(当然、口に銃を突っ込まれていたりめちゃくちゃ脅されていたりで言葉を喋ることができない)によって発されるこの問いを作者がどういう意図で使っているのかわからない。どちらかというとネガティブなイメージで使われてるのかもなーとも思う。でも、わたしはこの台詞を「いわゆる女性的な感覚で痛快だな」と感じた。自分の欲求の原因を他者に求めて他者を破壊することで欲求を乗り越えようとするタイラーの態度に対して、「ところでその銃、清潔なのか?」という向き合い方をする。たとえば女性が男性の性的欲求を受け止めながら頭では夕飯の献立を考えている、みたいなのに近いというか。このような「感覚のズレ」のようなものは決して無くすべきものではなく、むしろ大切にすべきものなのではないかとわたしは最近考えている。そしてたぶんこの辺の感じがわたしの中で、冒頭で書いた「男性かわいい」みたいな感覚につながっているような気がする。

とにかく、「その銃、清潔なのか?」に関してはとても主人公に共感を抱いた。そしてそれと同時に「父と息子という関係性が氾濫する世界に対抗する手段」として捉えられる尊い言葉だった。だから、最後にタイラーから銃を奪ったそのあとも、どうか彼があの問いを発した感覚を忘れていませんようにと願わずにはいられなかった。そうでなければこれは、少なくともわたしにとっては救いがない映画になる。

(追記終)

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