日記 2019/08/05

後から振り返って甘美だと思うような瞬間というのは、実際にそこにいるときには全然甘美な感覚ではいられないような瞬間を指すんだよな、いつも。と思う。甘美なことは別に何も良いことではなく悪いことでもない。だけど確実に甘美でなかった時のことを甘美に思うことはどうなんだろう。

そんな瞬間の実情というのはこうだ。自分が、10cmほど上に浮遊する自分に眺められ軽蔑されている。自分は、横たわる自分の、普段より青白い頬を眺めている。

15cm定規よりも短い距離に、ドライアイスから立ち上る煙みたいなものが発生して我々を繋ぐ。白い霧の向こうで決して手の届かない自分のことを自分は他の誰よりも親しい人だと感じていて、同時に自分は、自分のことを誰よりも疎ましく感じている。そして、夜が終わるとそれらの10cmや煙は全部ありえないことのように思えてしまう。

ほとんどの記憶が煙と一緒に、夜と一緒に消えるから我々はそれを共有できなくて、さらに言えば記憶以外にも共有できているものなど一つもない。残るのは「あの感じ」としか言えない、ひどく真実味のある何かであり、それに比べれば他人と共有する記憶なんてものは虚構に思える。そんな記憶たちを信じ、そのひとつひとつに意味を付与することでしか上手く生活ができない自分がひどく不誠実な人間であるような気がする。

あれを毎日の中でなんとか解釈するために甘さや美しさという言葉を当てはめてしまうのだろうか? だとしたら、骸骨に無理やり肉を着せて病気にして涙を流しながら悦に浸る人間だ、わたしは。そして明日の朝が来たら、それ自体が良いことなのか悪いことなのかどちらでもないのか、ということへの興味すら失っているのだろう。

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