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心地よい地獄

ずっと薄々気付いてはいたものの目を瞑ってきて、でも昨日やっとまっすぐ自覚したのは、よりよい音楽をしようと思うほどに自分は、度量が狭く、不寛容で、閉鎖的になってしまっているのではないかということだ。

たとえば自分の音程感覚が少し研ぎ澄まされると、「許せる演奏」の幅が狭くなるのはまあ当然だが、それに伴って一緒に演奏しても良いかなと思える人間の幅も狭まる。悪いのはここからで、わたしの場合は以上のようなことが、普段付き合う人間の幅までも狭めてしまう。たとえば音楽のセンスが気に入らないと一度でも思った相手とは、なんだかうまく話せなくなってしまうのだ。(なお、そもそも音楽をやらない人についてはこの話の対象外である。だからこそ、歌唱力が読めない友人とのカラオケは地雷コースだ)

これはピアノ独奏だけをやっていた時代にはあまり感じなかったことで、むしろそのときは、音楽がどんなによくても人間として尊敬できない人とは深入りしない、ということができていたのに。中学のときにオーボエを始めて、複数人でひとつの音楽をやるようになって、一緒に演奏していて本当に心地よい人というのを何人か知ってから、徐々に今のようになっていった。

たとえば極端に面食いの人みたいに、どんな人間でも音楽がよければそれでよい、と考えているわけではないので、むしろつらい。音楽の技術以外に人として大事なことはありすぎるほどあるって本当にわかっている。でもあまりにも音楽のよさという項目が自分の心のなかで大きな割合を占めすぎているみたいで、その人が持つほかの魅力をいくら知っていてもそれを優先しづらくなる。頭で考える理想と、心というか身体が一致しない。とてもおそろしい。

しかも周りを見渡してみても、だいたい同じような現象が起きている気がして、いい音楽をする人は自分が認めない奏者に対してたいていとても怖く見える(もちろん、そうでない人もいる)。いい音楽をしない人が周りをどれだけけなしていても無視できるが、いい音楽をする人の場合はある程度の説得力があり、時には自分が思っていたけれど言えなかったことを平然と言い放ったりもするので、無視ができない。

そして、いい音楽をする人としか普段の人間関係を維持できなくなってくると、その人たちに自分が「いい音楽をできない人」と思われた瞬間にすべての人間関係を失う気がしてくるのだ。いわゆる見捨てられ不安が発生する……これはもちろんストレスフルなことであり、プレッシャーとなって演奏にも悪影響を及ぼしかねないから困る。この依存関係が絡まりあった日にはもう最悪で、どんなにつらい毎日が続いてもほとんど身動きがとれなくなってしまう。

地獄だなと思う、すごくきれいな音楽が流れてはいるけれど。楽器はうまくなりたい、でも人間としての最悪を更新したくないし、呪縛がしんどい。この状況から抜け出すために、人間関係をぜんぶ切断してしまいたくなることがよくある。

きのう、古巣である大学オケの演奏を聞いていて、そんなことを思った。コロナ禍の中断を経て2年ぶりに実現した記念すべき公演で、それ自体は素直に喜べたはずなのに、半分くらいはこういうことを考え続けてしまうこと、こんなことに自分のリソースを使ってしまうこと自体が嫌になった。でも、今いろんな関係を切断すると迷惑しかかからないし、たぶんもう一生音楽とかできなくなってしまうだろうから、なんとか騙し騙しやっていくしかないんだと思う。

でもこういうやりかたで実現するよい音楽が、本当の意味でよい音楽とは思えないし、思いたくない。

そもそも音楽は自分にとってたんなる趣味、人生を楽しむ手段であるはずなのに、こんなに阿呆らしいことで大げさに悩むのはなぜなのか。もし、自分の人生の楽しみ方というのがまさにこれなのだとしたら、今度こそ絶望するしかない。

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京都在住。創造的なことすべてに興味があります。

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