アメリカで起こっている暴動のニュースがたくさん流れてくる。コロナ禍でだいぶフィクションっぽくなった現実がさらにフィクションに寄っていってるみたいに感じる、けれど実際は、これこそが現実の中の現実なのだよなあ。リアルとフィクションの立ち位置みたいなのがわからなくなってきた。世界には、自分が思う以上にいろんな可能性が、「現実に」ありうるのだと思い始めたというか。
コーヒーとZINEの6月号を発送した。外は暑くて湿気が高いのでマスクをしているのがしんどく、言われなくても外出を控えたくなっている。森の中とかに行きたい。
人間の社会に対してあまり真剣になれない、地球全体に対してもそうだよなあと思う。結局仲良しグループのメンバーでぬくぬくよちよちしあうことにしか幸せを見いだせないのかもしれない。それに罪悪感を持っているというわけでもない。
ラジオを流していたらロケット打ち上げのニュースで、いずれ日本人宇宙飛行士が搭乗する予定だ、みたいなことを言っていた。別に何人宇宙飛行士が乗ってもわたしにとっては変わりない、ということに気が付き、じゃあこの世界のありかたはいったいなんなんだ、みたいに混乱した。オリンピックで日本人選手を応援する気持ちとかもあまりわからないからそれと同じかな。まあでも、日本人の活動を報道するということには、自分と同じ属性の人が世界を舞台に活躍しているのを見て勇気が出るとか、いろんなことにチャレンジしようと思える、みたいな意義があるんだろう。それは、自分と同じ属性の人が比較的不利だからなのだろうか? どちらにせよ、属性というのが重いからこそこうなっているんだ、それは身近なところまでぜんぶそうなんだ、と思うと涙が出そうになる。結局人の本質なんか見ることはできないってことなのかな。肩書で判断してないって思っても、このひとはこういうひとだから好き/嫌いだ、というふうに自分の中で説明してしまっている……そのラベルがどれほど独自のものだと思っても、認識のしかたは自分の生まれ育った環境に大きく左右されてしまうから、それは結局「日本人だから好きだ」というのを細かくしただけのことなんじゃないのか。ということは、すべては程度の問題なのだろうか? 「程度問題」ほど難しいものはないですよね。じゃあこれからあらゆる報道における取捨選択や優先順位付けのあり方をどう捉えていったらいいのだろう、ていうか、どう感じていったらいいのだろうか……まあそんなことを考えても感じ方を変えられるわけではないが、抑圧はできてしまうので厄介。はあ、こうして自分の思考が徹底的に自分のものでないことが、これほど不快な日もあるのだな。