2020/01/22-24

この3日間、生活はボロボロだった。特に明るいうちが最悪で、お布団から出られない時間があまりに多かった。それでもお布団の中で必要な作業をしたし、英語の勉強もしたし、楽器が吹けない日はリードだけでも吹いた。平均には遠く及ばないが自分の中ではかなりがんばったほうだと思う。

一方、生活以外のところは極めて充実していて幸福なのだ。生活以外のところって言って伝わるのだろうか。わたしは生活以外のところで主に生きているのだけれど。

具体的に何が幸福かというと、このところ、自分の文章について嬉しいコメントをいただく機会が連続しているのだ。特に今日は本当に涙が出るような素敵な言葉で評価をいただいた。あまりにきらきらしていて、「(わたしには、というのではなく、そのものとしての)もったいなさ」があって、すぐ溶けてしまう雪の結晶みたいだった。幼い頃、手袋の上に乗った六角形を必死で見つめていた時の切なくて嬉しい感覚を鮮明に思い出したのがお昼の12時、それから6時間あまり経った今も身体の中から喜びが消えなくて苦しい。

現在もこれまでも、わたしの表現を読んだ誰かがそっとかけてくれる言葉によってようやく浮上して、最悪の墜落を免れている。そう思うとわたしは完全に自分のためだけに書き続けてきたのだということがわかる。こうしなければ死ぬような気がする。自意識の肥大がすごいな。

月に一度発行しているZINEにも、毎月感想のお手紙を書いて送ってくださる方がいる。ブログを書くとコメントしてくださる方がいるし、高校の時に書いた読書感想文のことを、現在に至るまで何度も何度も好きだと言い続けてくれる友人がいる。正直にいうと、自分の文章を読んでくださる方がなぜそんなにいるのかよくわかっていない。でも嬉しいことに変わりはないし、何よりも、誰かがわたしの書いたものについて述べてくれるときに初めて、わたしはわたしの存在をちゃんと認識できるようになる気がする。

それで先述の、雪の結晶のような言葉を発した人のもとで文章を書くことになりそうなのだけれど、そうして素敵な人と協同して素敵な場所で書くとなるとめちゃくちゃに緊張してしまう。書きたいことはこのブログにだけ書いて、仕事で何かを書くときは「お金をもらうための仕事だから」と逃げることのできる環境であれば楽だ、そうやって割り切っていれば、自分がへりくだっている先の理念については考えなくてよいのだから。でもわたしはそれをやめたかったはず。だからこのところ、本当に書きたいと思えるところに、書かせてくださいと連絡をしていたのだ。しかし、いざ叶うと、怖い。

自分のままで求められた成果を出すにはどうしたら良いのだろう。壁を破らなければいけないのかもしれない。泣くのかもしれない。頑張りたいなと思う。とりあえず今できることは美しいものを吸い込むこと、そして吐き出すように書くことしかない。

2020/01/13-14

1/13

練習に行く同居人を見送る、スーパーマーケットの開店アタックからの買い出し、晩ご飯を作る、自分も別の練習に行く、帰る、作っておいたカレーを食べる、撮っておいた映像研をみる、20時台に寝る。

1/14

昨日めちゃくちゃ早寝したにもかかわらず朝起きられないし、12時にやっと目覚めてもお布団から出られない。世の人はなぜそんなスムーズに連休→平日へと復帰できるのか全然わからない。この状態になると、やりたくないことをやれないのはもちろん、自分のやりたいことを見つけるのに苦労してしまう。でも今日は一つ確実にやりたいことがあってそれは『居るのはつらいよ』の続きを読むこと。と言っても未読部分はほとんど残っていなかったのですぐに読了してしまい、しばらく浸ったあとまた虚無に陥る。結局再び眠りに落ち、お布団から脱出したのは17時。とりあえずお風呂に入って楽器を練習する。しかしこの近辺では人が朝に起きて夜に寝ているので、音が出せる時間はわずか。しょうがないから、少しだけ音を出したあと、リードを作る作業をする。苦行すぎて吐きそうになる。こんなにストレスなんだから、買えばいいのに……と思うよね。いいリードができた瞬間、このストレスを全部忘却してしまうのです。だから買うタイミングがありません。

リードを作りながら考えていたのはこのようなこと↓

これは予言であるとともに「そうなってほしい」という祈りでもあるのだが、「私的な文章」はいずれ復権すると思う。かつての個人ホームページみたいなものが再び尊ばれる時代がいつかくる気がする。もっと多くの人が自分のドメインを取り、プライベートな表現を始めるような予感がある。

何かがめちゃくちゃ流行する少し前にその対象を生活に取り入れ、でもみんな全然注目しはじめないから不安になってやめたらその数ヶ月後か数年後かに多くの人がそれに注目しはじめてなんだかバカみたいな目にあうことがわたしには過去何度もあったので今回もそうなんじゃないかと思うしそうだったらいいなって思っている。だから自分にできることはここでちゃんとどうでもいい日記を更新し続けることなんだろうと思う。今度こそやめないぞ、次こそ世間がついてくるまでやり続けるぞ、と思っている。なぜそんなにして頑張るのか。自分が日記的なものを書くことが好きだということ以外にもう一つ理由がある。わたし自身、「私的な雰囲気の芸術」が好きなのだ(文章以外でも)。才能のある人の私的な表現を自分が享受したいのだ、もっとたくさん。そのために自分ができることというのは今のところ、ここを更新し続けることしかない。そんなことが全体の雰囲気とか素晴らしい芸術の創造に貢献できる度合いは本当にちっぽけすぎるので笑われちゃうかもしれないけど、でもわたしはやる。これはおそらく信仰なのです。ありえないような奇跡を信じて、さらにその信仰を自分で確認できる行為をやっていないと生きていけない世界だから、わたしは今日もこうして適当な日記を書きました。

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』――意味がなくて鮮やかなわたしたちの生活

わたしはインディアンたちの服が回っている乾燥機を、目をちょっと寄り目にして眺めるのが好きだ。紫やオレンジや赤やピンクが一つに溶け合って、極彩色の渦巻きになる。

「エンジェル・コインランドリー店」

今日は、ルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳の『掃除婦のための手引き書』を紹介しようと思う。
とても好きな作品で、うまく紹介できるか不安だけれど、がんばって書いてみる。

ルシア・ベルリンという作家

待って。これにはわけがあるんです。
今までの人生で、そう言いたくなる場面は何度となくあった。

「星と聖人」

ルシア・ベルリンは1936年にアラスカで生まれた。
アメリカの各地、チリ、メキシコ。たくさんの街に暮らした人だ。
鉱山町での日々、貧民街での暮らしと召使いのいる暮らし、シングルマザーとしての生活、静かな山奥の風景。教師、掃除婦、電話交換手、看護婦、小説家、刑務所での創作教室の講師、大学の准教授。
三回の結婚、そして三回の離婚。子供の頃に患った脊柱側弯症とその後遺症。アルコール依存症と、その克服。2004年、68歳の誕生日に死去。

ああ、なんて「カラフル(*1)」な人生なんだろう。

彼女の小説は、ほぼすべてが実際の彼女の人生を材料にして書かれているけれど、その人生があまりに多彩なのでどちらが小説なのかわからない。
実際、「彼女にしか持ち得ないような目と耳の鋭さ(*2)」によって描かれる世界は、現実よりも現実味を帯びているような感じがする。

いわゆる「忘れられた作家」だったようだが、リディア・デイヴィスが絶賛したことで訳者の岸本佐知子さんの目に留まり、今回の出版につながったとのこと(本書の巻末にはリディア・デイヴィス本人の言葉もある)。

本書以外で日本語訳されているルシア・ベルリン作品は「火事」(岸本佐知子編訳『楽しい夜』に収録)がある。

また、川上未映子責任編集の『早稲田文学増刊 女性号』にも本書の表題作である「掃除婦のための手引き書」が収録されている(わたしはこの本で初めてルシア・ベルリンに触れた)。

(*1)(*2)訳者あとがきより。

チェーンのカフェ、そしてコインランドリー

隣に座った盲目のお婆さんは点字を読んでいる。ゆっくり、音をたてずに、指が一行一行をなぞっていく。横で見ていると心がおだやかになる。お婆さんは二十九丁目で降りていった。〈盲人工芸品販売所〉の看板の “盲人” 以外の文字が全部なくなっている。

「掃除婦のための手引き書」

この『掃除婦のための手引き書』を開く時、わたしはなぜかいつも、チェーンのカフェでぼーっとしているときの気持ちになる。
どちらかというと凄惨な表現が多い本なのに、こんなに静かな気持ちになるのは不思議だ。

そもそも、わたしがチェーンのカフェでぼーっと感じている気持ちとは、いったい何なのか?
それをまず、説明してみようと思う。

チェーンのカフェとは、スタバとかドトールとかエクセルシオールとか、そういう種類のお店だ。
そういったカフェで周りの人を眺めているとき、不意に「なぜわたしはわたしであり、あの人ではないのだろう?」と考えてしまう癖がわたしにはある。

その疑問は、
「わたしの人生はこれで大丈夫なのだろうか」
「いろいろな可能性があった中で、この人生を選んだのは正しかったのだろうか」
「なぜわたしは、こんなふうに生まれてきたのか」
などのいろいろな不安から生じているような気がする。

カフェで、あるいはカフェの窓越しに一瞬だけ出会うひとりひとりの、生活をわたしは想像する。
隣に座った人、少し遠くに横顔が見える人、窓の向こうの雑踏の中でふと目に留まった人。
たまたま今はすごく近くに存在しているけれど、それ以降は絶対に出会わない彼/彼女ら。

あの人は、今晩どんなごはんを食べるのかな。
どんな場所で寝るのだろう。
家族はいるのかな。
明日起きたら、どんなふうに髪を梳かすのだろう。

そして自分自身の、どうでもいい生活を重ね合わせる。
「あの人」と「わたし」の、淡々とした毎日が重なるとき、
あの人は「ありえたかもしれないわたし」に、
わたしは「とりあえずわたしということになっているわたし」になり、
どうでもいい生活が、苦しいほどに鮮やかな、愛しい営みとなる。

わたしがチェーンのカフェで抱く気持ちとは、このようなものだ。

あなたと私との融解、私の私(と、あなた)からの疎外

わたしは家が好きだ。家はいろいろなことを語りかけてくる。掃除婦の仕事が苦にならない理由のひとつもそれだ。本を読むのに似ているのだ。

「喪の仕事」

『掃除婦のための手引き書』は、短編集である。
それぞれの短編は彼女の人生のいろいろな時点に材をとって書かれているので、舞台となる場所も主人公の年齢も職業もかなり多様である。

この本を読みながら感じる「チェーンのカフェにいるような感じ」は、
「ありえたかもしれない人生」の走馬灯を見ている、その静かな心地よさだったのかもしれないと、読み終えた今になって思う。

ルシア・ベルリンの語り口というのは、
カフェにたまたまいる「あの人」の身体の中に入り込み、自宅までついてゆき、彼/彼女の目の内側から「生活」をただただ眺めているような、
そんな語り口である。

PCを持ち込んで仕事をしているサラリーマンの、参考書を開いて勉強する高校生の、ネットビジネスの話をもちかける人の、それをもちかけられる人の、かなりの速度で雑踏をかき分けてゆくスーツ姿の女性の、あまりにもゆっくり歩く老人の、
生活を、ただ見る。
評価はしない。
というかできない。なぜか?

それは、ルシア・ベルリンの語り口において、もしくはわたしのカフェでの妄想においては、
自他の境界が奇妙に融解し、同時に、奇妙な疎外感が生じているからだ。
こうして自他の概念が崩壊したとき、評価という行為は無効化される。

ルシア・ベルリンの作品で一人称の「私」によって語られるのは、「私」そのものを一歩後ろから見ているような、いわゆる「解離的な」文章である。
血みどろの場面であっても、悲惨な状況であっても、豪奢な日々を描く部分でも、目の前の世界が極端に淡々と、しかし極端に鮮やかに描写される――しかもその描写の仕方は、「私」自身についても適用されているのだ。

それは、「私」を「私以外」と同じ世界で捉えるやりかたであり、
同時に、「(書き手としての)私」が「私(と、それを含む世界)」から阻害されてしまうやりかたである。

そのやりかたは、全然関係のないはずの、時には自分に害を与えることすらある他者たちと自分との間に『ありえたかもしれないわたし「たち」』としての一体感をもたらす。
その一体感がもたらされている間、世界はきわめて静かであり、その静けさの中には、癒やしと悲しみが同居している。
これが、ルシア・ベルリンの文体の「静けさ」の正体だとわたしは思う。

ちなみに、わたしにとっての「チェーンのカフェ」のような空間は、ルシア・ベルリンにおいて「コインランドリー」として現れているのではないかと考えている。
したがって、この短編集の最初におかれた作品がコインランドリーを舞台にしたものであるというのは、非常によくできた構成だなあ、と思った。

書くことのケア性――toi booksでの読書会を経て

ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。狂っていたの、それとも見えすぎていた? どちらにしても、あなたみたいになるのは耐えられない。わたしはいま恐れている……だんだん美しいものや正しいものを感じられなくなっていくようで。

「苦しみの殿堂」

この『掃除婦のための手引き書』については、大阪の本屋さん toi books にて開かれた読書会に参加して、多くの人の様々な意見を聞いた。
それによって、解釈のための新たな視点を手に入れることができた。

それは、「ルシア・ベルリンにとってこれを書くことは、ケアのひとつだったのではないか」という視点だ。

ルシア・ベルリンの人生は、一般的に言えば、かなり「たいへん」であった。

家族数人のアルコール依存、祖父からの性的虐待、虐待を知りながら見て見ぬふりをする他の家族、妹だけに注がれる愛情、学校でのいじめ、母親の自殺未遂、夫の薬物中毒、自分自身もアルコール依存となった状況での仕事と子育て、死を間近にして怯える妹の介護、など。

誰の人生でもそうだが、人生というのは毎日の生活の総体である。
状況がどんなにつらくても、生活をしなくてはいけない。

そんな中で生まれたのが、上述の「解離的な書き方」である。
これは、彼女が自身の「たいへん」な人生をやっていくための手立てであり、
それと同時に、ひどすぎる家族たちのひどさを諦め、そうして諦めることによって穏やかに受け入れるための手段だったのではないだろうか。

こういう意味での「書くという行為の尊さ」は、
彼女ほどにはつらい目にあっていないわたしにも、痛いほどにわかる。
書くことにこういう意味があるから、わざわざ日記をつけるし、ブログを書くのだ。

そう思うと、ルシア・ベルリンという人がとても近い人のように思える。
同じように苦しみながら生活をしている人。

わたしたちの人生も、生活も、意味がなさすぎて笑ってしまう。
だけど意味のないそれらは、こんなにも鮮やかなんだよ。

ルシア・ベルリンは、彼女自身を含む「わたしたち」に、そう言ってくれているような気がする。

この本は、こんな人に

この本をおすすめしたい人はどんな人か? というのを述べて、記事を終わりにしようと思う。

  • 毎日の生活がしんどい
  • 毎日の生活を愛おしく思いたい
  • 他人と関わるのがしんどい
  • 家族がしんどい
  • どうして私はこんなにつらい人生を続けているのかな、と思う
  • 日記をつけるのが好き
  • 日記ブログを読むのが好き
  • カウンセリングなどでの「語り」に興味がある
  • 海外文学ならではの語り口やジョークを味わいたい

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』をプレゼントするとしたら、こんな人。
ぜひ、手にとってみてください。