日記 2019/03/02

倫理観が合わない人よりも、倫理観が曖昧でよくわからない人のほうが余程怖い。
何が自分の核にあるのか、ということについて、少し的はずれな自覚を抱いていそうな人よりも、自分の核についてまったく何も自覚のなさそうな人がとても怖い(正しく自覚するというのは、不可能だと思います)
占いを信じるという自分の選択のほうを信じているような人とはきっと仲良くできる。けれど、あらゆる診断結果に自分を見出し、そのことに何の不安も抱かない人に対しては、わたしは恐怖を感じる。
そうやって怯えたあとはいつも、自分がとても古いような感じがする。柔軟性がなく常に何かに執着している、取り残された人間のようにも思えてくる。
けれども、取り残されるということを、一種の勝利であると考えるのはどうだろう? わたしを恐れさせるあの独特の微笑み、あれらは全部、どこにも取り残されることができないで捨てられる虚しい表皮みたいだもの。
取り残されて初めて次のステージに進むことができる。
もし砂でできた権威ならわたしが壊さなくてもいずれ風に吹かれるか波にさらわれて崩れる。
選んでいるのだという誇り、たとえそれが選ばされているのであろうとも、わたしは「わたしが選んだ」というのが少しでも真実である可能性をずっと信じたい……そんなことをここ最近ずっとずっとずっと思っているし呪文のように頭の中で唱えている。


Twitterの規則の変更を受けてTwitter上で「次に使う場所」の話をしている人々を見て、なんだか彼らに限ってTwitterから離れることができなさそうだなあと感じた。
根拠は全然ない。ただ、わたしはそういう光景にすごく苛立った。これもなぜだかわからない。でもなんていうか、自信。あるいは傲慢さ。そういうものを勝手に感じ取ってしまった、と思う。
そのあと「わたしはできれば何にも依存しないで話し続けたり書き続けたいなあ」と強く思った。
でもそんなことは不可能だ、とすぐに思い直した。できるのは依存したくないと思い続けることだけで、何にも依存しないというのは無理な気がした。
できるだけいろいろな形で話す・書くことが大切なのか、それともできるだけいろいろな場所で話す・書くことなのかな?
あるいはただひとつの場所で、ただひとつの形でそうするべきなのかな。これは、依存することは依存していることを認めないこととほぼ同じ気がするから、あえて自覚的に依存してしまうほうが良いのかな、ということである。
だけどどうあがいても、わたしにできるのは、どんなに自由に見えるときだって常に何らかの規則に縛られていることを、薄目で、横目で、見るようにつとめることだけなんだよね。
そしてそれができたとしても、最終的にわたしは、自分の脳内でこだまし続ける言葉の奴隷なのだ。これについてはどうしても自覚的に何かをする(距離を取る)のは難しい。
自覚しようとすると増殖してしまう。見るだけでふえてゆく。わたしの頭の中はものすごく気持ち悪い合わせ鏡みたいだ。


自分の受け取る情報のうち、確実に誰か特定の人から発せられた主張、みたいなものの比率が不足していてしんどい。しんどい。しんどい。英語とかそういう主語がはっきりした言語に触れればいいんかな。わかんないよ。


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