食べるということは

ヤン・ブリューゲル (父) / ピーテル・パウル・ルーベンス《五感の寓意:味覚》

食べるということはいったい何なんやろう?
何かを受け入れることであるという説明は聞いたことがあるけれど。
食べる対象というのは決して自分ではないものである。
自分ではないものを受け入れるということ?
そればかりでなく、自分ではないその何かによって未来の自分が構成されるということを受け入れたり、望んだりすることなのだろうね、と思う。

何かを食べるということは本を読むよりも強く自分に自分以外を浸透させる行為なのかもしれない。
わたしは本をちょっと読むだけで頭の中の文体が=思考の仕方が変わってしまう。
だから、何かを読むことには非常に慎重になってしまうけれど、
日々食べたり飲んだりするものに、それと同等の注意を払っているとは言えないのではないか?
大丈夫なのか? わたしはちゃんと生きているのだろうか。

かわいいものを食べ続ければかわいい人間になれる?
わたしはずっと究極のわたしになりたいっていう夢しか抱かずに生きてきた。
でも何を飲み込めばわたしになれるのだろう。そもそもわたしはどんなわたしになりたかったのだろう。
食べられるものなんてほとんどない気もするし、あらゆるものを食べるべき、みたいな感じもしてくる。
飲み込んだものに決定付けられる運命? サトゥルヌスは結局、子供らに支配される道を選んだのか、等。

おそらくは、選びながら選ばないということ――
なの?

そして、
何よりも恐ろしいのは「誰かのために食事を用意する」という行為である。
人に本を薦めるよりも、もっと責任のある行為だということになるのではないか。

自分はいつか、美味しいものが飲めて、美味しいものが食べられて、読書や勉強やその他の作業が好きなだけできるスペースを築きたいと思っているが
本当に、他人に食べ物や飲み物を提供するだけの覚悟があるのだろうか?

わたしの周りには懸命に何かを創り出している人が本当にたくさんいて、そういう人にお客さんになってほしいと思った。
それはもう神々である、
わたしの周りにはたくさんの神様がいると常々思っていて、彼ら・彼女らがまさに創造するその場面を目撃したい、というのが、わたしがそういうお店をやりたいことの根本にある気持ちである。

でも、そんな神々に食べるものを差し出すという、そんな烏滸がましいことができるのだろうか。
それとも本当は、そうやって間接的に創造したいという気持ちが心の奥底にあるのだろうか。

例えば、珈琲なんかのあらゆるものを常時3種類くらいから選べるようにして、選ぶということの楽しみを提供したい、なんて言っているけれど
ひとつの答えでなく選択肢だけを提供するということは、譲歩しているように見えて譲歩とは程遠い行為である。
やはり、無意識の願望がたくさん、密かに存在しているのかな。自分の知らない自分。

食べることそのものや、誰かのために食べ物をつくるということは
どちらも境界を超える行為なのでしょうか?
自閉的な生活だと思いこんでいるけれど、実際のところわたしはすでに、毎食の料理と食事で自らの自閉性を裏切り続けているのか。
明日、何を食べたらいい? わたしとは誰なのか。
まったくわからない。

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