『積読こそが完全な読書術である』という本をそのタイトル通りずっと積みっぱなしにしていたのだけれど、この前ようやくひととおり読んだ。もっともこの本の内容に従うなら「読んだとはいえない」という表現をしなければならないのかもしれない。とにかく最初から最後まで目を通した、という意味である。この本のなかで特に印象に残ったことを書き留めておこうと思う。
自分なりのビオトープをつくる
本は読まれるためのものでもあるが、保管されるためのもの、つまり読まれずに置いて置かれるためのものでもある。今までなぜ気づかなかったのだろう。積読は読書と同じくらい、本の目的にかなった行為だということに。
しかしなんでもかんでも積めばよいというわけではない、と筆者はいう。情報の濁流に押し流されないための「ビオトープ」として、自分の積読たちをケアしつづけることが必要だと。これは耳が痛い。本棚から溢れ出した本たちをうまく管理しきれなくなってどれくらい経つだろうか……
ちょうど今、新居の設計をたのんでいる途中で、その計画にはいまのところ、壁一面の本棚が含まれている。本は多ければ多いほどよいということではない。有機的連関を大切にしなければと思った。最初に本をおさめるの、なんだか緊張するなあ。そういえば昔、お世話になった先生の研究室の本棚を整理するという仕事をやったことがあるけれど、それはかなり贅沢で責任の重い仕事だったのだなと改めて思う。
本を読むことは時間を味わうこと
「書物は時間を蓄積するもの」。確かにそのとおりだなと思う。一冊の本には、誰かが膨大な時間をかけて考えたものが詰まっている。なんだか、ページを開くと異次元が広がっているような感じがしていいですね。
この考えから「本を読むことで時間を節約できる」という結論を導くこともできるけれど、それよりわたしは「読書は濃縮された時間を味わうことだ」というところにたどり着きたい。気の遠くなるような時間を味わっている、と気づくときに湧いてくる畏怖の念はたしかに快感をはらんでいる。そのことをわたしは、ワインで知っている。音楽でも、知っていると思う。
「読んだ」といえる本は存在しない
書物が本質的に持っている「読めなさ」には薄々気づいていたが、この本を読んだり、その後関連書物を読んだりした結果、確信に至った。本を完全に読むことなどできない。
だから「読んだ本」を手帳とかにカウントするのもやめようと思う。「何を読んだか」よりも、それとともに何を考えたかという部分、つまり「本と共に過ごすことで自分の考えがどう醸成されていったか」のほうがずっと大切だ。
目次だけ見た本でも、一部分見た本でも、全部見た本でも、これまで同様、読んでいる途中のメモをとりあえず残そうと思う。「読後感」だけを信頼するのはよくない。読んでる途中に変わっていく部分こそが重要、というか、愛おしいと思う。この記事ももちろん、読みながら書いたメモをもとに作った。
うしろめたさの種類が変わる
積読についての思いが、「読まなきゃ」から「本棚ケアしなきゃ」へと変わることにより、「うしろめたさ」の性格が明るいものになったような気がする。
本を大切にする手段は、読むことだけでなく、適切な場所に置いてやることもまた本への愛情の示し方。こう考えられるようになっただけでこの本を「読む」価値があった。この感覚を忘れないために、しばらく本棚に置いておこうと思っている。どの本の隣に並べようかな。
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