雨の日の過ごし方

雨が降っている日には、部屋の窓を閉め切って際立つ静けさに安心を覚えるのも良いけれど、思い切って窓を全開にして、雨音を直接感じてみるのも心地よいものだ。

予想したよりもずっと近くに迫る雨の音に耳を傾けていると、まず、遠くで聞こえるいくつかの自動車の音が、無数の雨音の中に溶け込んでだんだん同一化する。
そんな曖昧さに身を委ねているうち、窓の外の世界全部が、雨の落ちる縦の線で描かれているような気がしてくる。

そうやって世界すべて、みたいな巨大なものを感じはじめたら最後で、自分の体から距離感が失われてしまう。
すぐそこにとてつもなく大きい何かがあり(というか、それしかなく)、もうすぐ自分もそれに組み込まれそうだということだけがわかる。

こうなると「耳で聞く」という行為は不可能になり、巨大で偉大な雨音がわたしの体の表面という表面すべてに貼り付いて圧迫しはじめる。

あまりにも大きい音の中に浸されると思考することが難しくなる。ものすごくうるさいというのは少し心地よいことなのだ。

世界が壊れる時もこんな感じだといいな、と思う。
あまりにも自然にわたしを内包しているこの世界は、それが壊れる時ようやく姿を現してくれるのだろう。
たとえ、そのときが来るまでまったくの無関係を装う権利があったとしても、最後の最後にはわたしは世界と無関係ではいられないのだという声。轟音。どんなに暴力的であろうと最後までわたしを包むように響く。
もうすぐこの部屋もわたしも崩れて木っ端微塵になってしまうと思うけれど、そうなっても雨音は、もともとわたしであった一粒ひとつぶの全部の表面を包むように優しい線を描き、圧倒的に偉大でいてくれるだろう。

雨の日には窓を開けて、こうして世界が終わる日の練習をする。

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