雨の日の過ごし方

雨が降っている日には、部屋の窓を閉め切って際立つ静けさに安心を覚えるのも良いけれど、思い切って窓を全開にして、雨音を直接感じてみるのも心地よいものだ。

予想したよりもずっと近くに迫る雨の音に耳を傾けていると、まず、遠くで聞こえるいくつかの自動車の音が、無数の雨音の中に溶け込んでだんだん同一化する。
そんな曖昧さに身を委ねているうち、窓の外の世界全部が、雨の落ちる縦の線で描かれているような気がしてくる。

そうやって世界すべて、みたいな巨大なものを感じはじめたら最後で、自分の体から距離感が失われてしまう。
すぐそこにとてつもなく大きい何かがあり(というか、それしかなく)、もうすぐ自分もそれに組み込まれそうだということだけがわかる。

こうなると「耳で聞く」という行為は不可能になり、巨大で偉大な雨音がわたしの体の表面という表面すべてに貼り付いて圧迫しはじめる。

あまりにも大きい音の中に浸されると思考することが難しくなる。ものすごくうるさいというのは少し心地よいことなのだ。

世界が壊れる時もこんな感じだといいな、と思う。
あまりにも自然にわたしを内包しているこの世界は、それが壊れる時ようやく姿を現してくれるのだろう。
たとえ、そのときが来るまでまったくの無関係を装う権利があったとしても、最後の最後にはわたしは世界と無関係ではいられないのだという声。轟音。どんなに暴力的であろうと最後までわたしを包むように響く。
もうすぐこの部屋もわたしも崩れて木っ端微塵になってしまうと思うけれど、そうなっても雨音は、もともとわたしであった一粒ひとつぶの全部の表面を包むように優しい線を描き、圧倒的に偉大でいてくれるだろう。

雨の日には窓を開けて、こうして世界が終わる日の練習をする。

2019/04/09 日記

140字で呟ける素朴な日常などもうどこにも残っていないような朝にぼくはいる。

空から降ってくる青みの混ざった光があとほんのちょっとのところで届かず窒息してしまいそうで窓を開ければ、近くに遠くに走ってくる・走ってゆく車の音がごうごうと響き合って、何かを考えるための余白がなくなってしまった。

自分を大切にするために淹れたはずの珈琲は冷めきって舌の上でナイフになり、なんだかぞっとして関節が震えるような気がする。

鳥肌を立てながら、昨日おとといあたりに自分を生かしてゆくために殺した命の数を数えてみても何も感じることはない。

轟音の切れ目に聴こえるバロック音楽なら、そんな無感覚でも良いと言ってくれるのだろうか? 何に対しても意見を持たない・意見を持ったとしても表明などしない、そうしていられることじたいが贅沢品で、これから先、どのように自らの思想を愛することができるだろう。

今はもう、残っている分の珈琲だってレンジでチンできるという。香りは飛ぶかもしれない。けれども外から吹き込んでくる直線状の音のせいで、もう香りなんかわからなくなるくらいに寒いのだ。

最後にもう一度、と窓を閉めると途端に響き出すト短調は不思議にぼくを不愉快にさせない、今度聴いているのはただの残滓だからだ、

劇的だけど自分には関係ない、いや、ちゃんと関係があるのかもしれない、本当のところはわからない、それくらいの触り心地で、反響してくる余韻のところだけをシャワーのように浴びるための音楽。

「この時代に生きていたらよかったのだろうか?」それは結局どういうことなの? 何が言いたいの? そんなことはわからない、本当のところ、というのは誰にだってわからない、わかることなんか何も要らない。そんな朝にいる。