
今年が始まってから9か月目に入り、1日1ページでつけている2019年の日記帳もいよいよ厚みを増してきた。この厚みが、秋のしるしだという気がする。両手に日記帳を持ち今日のページを開くと、片方が重くてもう片方は軽い。残された余白がもうほとんどないことがわかる。さみしさに感触があるとすれば、9月に日記帳を開くときのそれなのではないかと思う。
変化がないと毎日をやっていけなくて、今日はただ勉強と仕事をするためだけにカフェからカフェへと漂っていた。自分の機嫌をうまくとることができてえらかったかもしれないと思うけれど、そう思うこと自体がなんだかものすごく嫌だ。
疲れてくると自分の欲求を探し当てることができず、例えば今食べたいものを尋ねられた時などは、くじの入った箱を延々と探っているような気持ちになる。引いても引いてもわたしの探している当たりは出てこず、はずれの中から相手の求めていそうな正解を選んで差し出してみたりとか、やるせない。
楽しみにしているのが今週末で、美術館に行ったり、好きな人がシャツのオーダーをするのについていったりする計画をしている。その息継ぎまで、ずっと苦しいかもしれない、と思う。毎日はクロールみたいだし、わたしは多くの人のように泳げない。日々をうまくやり過ごしている人はみんなエラがついてるみたいに見える。
そうやって半分溺れながらも後ろから迫ってくる時計の針に押しつぶされないように前に進もうとしているうちに、いつの間にか人生の持ち心地もどんどん片方だけが軽くなってゆくのだろうか。それとも、わたしは20歳になるまでに死ぬのだと一度決意してしまったから、20歳以降はずっと書くことの許されない空間に落書きを続けていて、だからこんなに何もかも重たく引きずっているのだろうか。
泳ぐべき方向を持たない者は水流に流されて漂い続けるしかなくて、留まるなんてことは一番できないことだ。この生に意味はあるのか。意味がない場合、いったいどこを見つめて生きていけばよいのだろうか。一番初めのページのわたしに会って、助けて、と言いたい。
コメント