ビリー・アイリッシュを流さないと家事ができない

グラミー賞のことでビリー・アイリッシュの話題がTwitterのタイムラインにちらほら流れてくる。おめでとうございます。

米グラミー賞、18歳ビリー・アイリッシュが5冠 ブライアント選手の追悼も – BBCニュース
https://www.bbc.com/japanese/51259695

最近のわたしがビリー・アイリッシュの音楽を好んで聴くタイミングはたいてい家事をするとき。そしてなんだか、彼女の曲を流していなければ家事に取り掛かれない日がけっこうある。特に、キッチンに置いてあるEcho Dotから流すことが多い。「どう考えても料理や洗い物をしながら聴くべき歌じゃないやん」って思うでしょう。でも一度やってみてほしい。なぜかハマってしまうんだよ。

なぜビリー・アイリッシュを聴いたら家事ができるのか考えていたら、彼女の曲が流れている場合のみ、自分がかなり気怠い感じのままで動けていることに気がついた。多分わたしの中には「家事=明るく前向きな気持ちでなければこなせないタスク」という固定観念があるのだが、その無駄なとらわれに勝つことができるというか……とにかく、キッチンなどで彼女の曲を流した瞬間、「めちゃくちゃ怠そうな感じで目の前の洗い物を適当にやる女」の像が目の前に浮かび上がってくるのだ。あとはその像に自分をチューニングしていくだけ(?)で、いつの間にか家事が終わっているのである。

この現象はおそらく、自分のコントロール法においてかなり重要なことを示唆している。経験的に、何もしたくないときに「気が進まなくても良い。いやいややってもいいのだ」と思えたら大抵のことができるような気がするのだが、その境地にひとりでたどり着くのはわたしにとってけっこう難しい。なんでも「気が進むからやる/気が進まないのでやらない」と白黒に二分しがちなわたしにとって、ビリー・アイリッシュの音楽が持つ色合いは本当にありがたいのだ。もちろん家事BGMとしてだけではなく、お部屋でゆっくり聴くのも好き。これからもたくさんお世話になりそうな気がする。買うか迷ってまだ買ってないユリイカ、買おうかなあ。

東畑開人『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』を読み、わたしは赤ちゃんだとわかった

どんな本?

  • ケアとセラピーに関する「学術書」
  • 沖縄の精神科デイケアが舞台
  • エッセイ体で書かれている

出版社による序文は以下です。

「ただ居るだけ」vs.「それでいいのか」
京大出の心理学ハカセは悪戦苦闘の職探しの末、ようやく沖縄の精神科デイケア施設に職を得た。「セラピーをするんだ!」と勇躍飛び込んだそこは、あらゆる価値が反転するふしぎの国だった――。ケアとセラピーの価値について究極まで考え抜かれた本書は、同時に、人生の一時期を共に生きたメンバーさんやスタッフたちとの熱き友情物語でもあります。一言でいえば、涙あり笑いあり出血(!)ありの、大感動スペクタクル学術書!

「ただ、いる、だけ」

この本で何度も語られるのは
「ただ、いる、だけ」の難しさ、
とりわけ現代社会におけるその難しさである。

詳しく書くとネタバレになってしまうのだけれど……
とにかく、エビデンスとかコスパが求められる社会において「ただ、いる、だけ」つまり生産性を問題にせず「ただそこに座っているだけ」のような状態を健全に成り立たせることのできる場がどれほどレアか。これは多くの人が実感することだと思う。

でもこの事実を、具体的にわかりやすく、かつ学術的知識をしっかり交えながら、そして何よりここまで面白く(重要!)書ける人はこれまでいなかったのではないか。

自分が昔通っていた精神科にもデイケアがあり、通院のたびに利用者の方々を見かけていた。当時は「何してはるんやろう、何のためにここに集まるんやろう」と思っていたけど、本書を読むことで「あれはこういうことだったのか」と附に落ちた。これだけでも既に、読んで良かったと思う。

さて、本書は学術的テーマを扱いつつエッセイ調である。それは、この本の内容がこの文体でしか表せなくて、だからエッセイ調なのだそうだ。「ただ、いる」ということ、その円環は論文のような文体では綴ることができない……わたしはこの部分にとても納得する。自分がなぜこんなにも日記的な文章を書いてしまうのかがちょっとわかった気がした(ブログとは別に、紙の日記帳にも書いている)。それは自分が「ただ、いる」に大変苦労するタイプの人間だからだ。「ただ、いる」と何とか向き合うために自分は日記を書いているのかもしれないのだ。

わたしはこれで良いのかもしれない

著者に感謝している。自分のあり方みたいなものが、この本によってかなり見えやすくなったのである。

この本を読んでわかってきた自分自身の特性はこんな感じだ↓

  • 自分は日常をただ生きる=「ただ、いる」のがかなり下手である
  • なんらかのサポートがないとすぐに日常から離脱してしまう
  • したがって「共にただ日常を送ってくれる存在」をかなり必要としている

多分わたし自身は、本書の登場人物で言うと「スタッフ」よりも「メンバーさん」寄りの人間であるような気がする。本書で出てくるメンバーさんたちと違って統合失調症ではないけれど、普通に日常を送るということを、世の多くの人よりも苦手としているのは確かだ。

そしてそんなわたしは、けっこう「ケア」を必要としているのだ。具体的に言うと、そばにいて日常を過ごしてくれる存在を求めている。実家で犬といた時だけちゃんとやっていけたのも、犬にケアされたからでは?

わたしは子供の頃から自分の空腹・満腹をうまく察知できないので、普通にお腹を空かせる存在がそばにいてくれないと食事をコントロールすることができない。目を瞑ると、顔から数センチのところで誰かに見張られている感じがするので、れっきとした生物(?)がそばにいてくれないと怖くて眠ることができない(いても怖いけど)。頭の中の声が外界に侵食してきてうるさく、誰かの生活音がなければ狂ってしまいそうになる。これらはみんなに起こっていることで、みんなはこれに耐えて生活している(そしてわたしは弱いからこれに耐えられていない)のだと思っていたが、そうではないかもしれないと最近わかってきた。多くの人は、そうするのが自然で楽だから日常生活をあんなふうに送っているっぽい。でもわたしにとって日常を恙無く過ごすというのはかなり努力しないとできないことだ。気を抜くと失敗する。

でも本書を読み進めるうちに、自分のこの性質は別に悪くないなと思いはじめた。確かに困るけれど、悪ではないかもしれない。
ちゃんと、良い点もあるのだ↓

  • 「ただ、いる」ことの難しさを、他の多くの人よりも知っている気がする
  • 「ただいるだけでいいのか?」と言う自分の中の声が、わたしの場合、おそらく他の多くの人よりも聞こえにくい
  • その結果、他人の「ただ、いる」をサポートしたいという気持ちを強く持てているし、おそらく適性もそこそこある

赤ちゃん的人生

じゃあ、他人の「ただ、いる」をサポートできるような生き方をしますか?

……

本書では、「ただ、いる」をサポートすることの難しさも同時に語られていた。そりゃそうだ。「親」と呼ばれる人々を見ていてもそれはわかる。究極にケアを求める存在である赤ちゃんを前にして、親をやっている人々はかなり苦労しているように見える。今更わたしが「スタッフ」の側に回るのはどう考えても無理だという感じがする。

ここで思い出したいのが「デイケアではメンバーさんもケアを行なっている」ということだ。赤ちゃんは親にごはんを作ってあげることなんてできない。でもそんな無力な赤ちゃんが親にとって生きる活力になることだってあるだろう。または、猫を思い出そう。猫は気ままに寝ているし人間の役には全然立っていないように見える。そんな存在が同じ空間にいることのありがたみ。

今の自分の暮らし方を省みる。経済的に同居人を支えることなんて全然できていないし、完璧に家事をやっているわけでもない。赤ちゃん時代となんら変わらない生活をしている。
それなのに暮らしてゆくのがめちゃくちゃつらいときがある。そんなとき、親や配偶者と何度も何度も交わした会話を思い出す。
「ただいるだけでいいんだよ」
「それが難しいんだよ」

この本を読むずっと前からもう、わたしはケアの円環の中に在ったのか。そしてわたしの人生は、「ただいること」を努力し続ける人生なのか。

!!!ずっと赤ちゃんの人生!!!

なんとなく気づいていたけど直面を避けてきた事実に初めて向き合う事となった。そして、「自分の生き様は、けっこう良いのかもしれない」と思うことができている。繰り返しになるがわたしは、本書の著者に感謝している。

大人の赤ちゃんとして何ができるか

自分の人生が赤ちゃん的人生であることはわかったけど、今のあり方に満足しているわけではない。いずれ「場」をつくりたいと、2016年ごろから考え続けている。本書で学んだことをその場づくりに絶対に役立てたい。

お茶やお酒だけでなく筆記用具をはじめとする各種ツールを提供し、勉強も仕事も、スケッチや編み物みたいな創作も、そしてもちろん何もしないこともできるような、逃げ場的な場所にしたい、とは常々考えていたが、本書を読むことでその考えが少しだけ具体化できた。

  • 透明化する光≒「会計監査文化 audit culture」から逃れられる場である
  • 外から見えすぎない曖昧な場である(視覚的にも)
  • 内輪ノリ的な(?)コミュニケーションが成り立つ
  • ひとりになれる場所としても機能する
  • 通過地点としての店ではなく、一定の時間をちゃんと暮らせる場である
  • そこでわたしはただいることに徹する

こういうのを書き出してみると、「完全に趣味でやってるバー」とか「なぜか客が客にサービスしてる喫茶店」みたいなのがどれほどありがたいかわかってくる。わたしだって理想は採算度外視である。でも実際にはそんなことできなさそう。この辺が全く詰められていないことに変わりはない。でも、将来自分が作ってみたいものについてディテールが少しでも追加されたのは本当に幸いなのだ。

『居るのはつらいよ』は数々の賞を受賞しているが、中でも「紀伊國屋じんぶん大賞2020」で第1位に選ばれたことにわたしは注目している。この賞は読者の投票や出版社・書店員の推薦などで成り立っているので、ここに選出されることは本書の内容が「専門外の人にもかなり響いた証」のように思う。わたしはこれを、「自分の目指すところに共感してくださる人が多いのかもしれない」というふうに都合よく解釈しているのだ。

おめでたいね。でも、本当にわたしは「いられる社会」にしたいのだ。ここを。

こんなわたしは次に何から取りかかれば良いと思われますか。アイディアやご賛同をいつでもお待ちしています。今日も明日も、ただいることに苦労しながら、それでもこうやってわたしはここにいつづけています。ぐるぐる回りながら他の円と交わって、その全体でまあるい大きな図形を作ることを夢見ています。

deciliter『白昼夢、或いは全部勘違い』

これは友人のブログが書籍化されたもの。ちゃんと手に入れておいてよかった。もう在庫がないみたいだった。世の中にそういうものは意外と多い。というより、そういうものが基本だったのに最近はそうじゃないものが増えてきただけなのかもしれない。

著者曰くこれは「ラブレターであり、日記」。大森靖子の歌詞の解釈を中心としながら紡がれてゆく日記、といえばいいのかな。そう、彼女とは大森靖子を通して知り合った。でもわたしは彼女と知り合った当時の記憶がすっぽり抜けているので今となってはどこでどうやって最初の会話を交わしたのか全く思い出せない。

思い出せないことをあまりにたくさん抱えすぎているわたしはこれまでをきちんと生きていなかったのだろう。今のこともいずれ忘れてしまうのだろうな、という諦めが強い。そして逆に、彼女はちゃんと生きすぎているように思う。彼女の世界はびっくりするほど鮮やかなのだろうなっていつも想像する。世界からぜんぜん逃げていない。すごい。

その上で、彼女のすごい点は世界の中でも特に「人」のことをまっすぐ見つめることができるところ。まずわたしは他人の目をぜんぜん見られないのだが、彼女はけっこうわたしの目を見つめる。物理的に見るだけではなく、自分の過去から現在まで、一応ちゃんとやったことと全然ちゃんとやってこなかったこと、ちゃんとやってないのにやったことにしていること、みたいなのを全部瞬時に見抜かれる気がしてめちゃくちゃ緊張する。そういう彼女の視線がこの本にめちゃくちゃはっきりあらわれている。彼女が大森靖子を見る視線、地元の友だちを見る視線、彼女自身を見る視線、など。

そして、「わたしは誰かの目さえ見ることができないのだから、誰かを存在として明確に捉えることなどほとんどできていないのだ」と思い知らされる。わたしは誰のことも愛することができていないのかもしれないし、誰かがわたしのことを愛してくれていてもそのことが全く読み取れていないのかもしれない。別にこの自分のあり方をどうにかしたいと思うわけではなくて、「こうではないあり方もあるのだな」と思わされるのだ。相対化。自分の人生がとても曖昧な色をしていることに気づくことができる。雨の日に家の中から見る、窓ガラスの水滴を通した外の景色の、あの色がわたしの人生の色だ、と思った。そして今気づいたのは、わたしの頭の中がちゃんとカラフルになるのは夢の中だけなのだ、ということ。あの極彩色の気持ち良い夢。わたしの夢みたいな世界を彼女は現実として生きている、たぶん。

私をちっとも好きになってくれなかった人は、きっと私のことで傷ついたり困ったりはしなかっただろうし、私の夫は私のことで傷ついたり困ったりしてくれるのだろう。傷ついたり困ったりしてほしいだなんて思えなくて、もしかしたら思っているのかも知れないけれど少なくとも言えやしなくて、自分のことで笑ったり泣いたりするのが許せない、自分のことが許せないのか相手のことが許せないのか、多分そのどちらもだと思うが、許せない。私が傷ついたり困ったりして、私のことで傷ついたり困ったりしてくれるであろう人はごく僅かで、「きっとこの人は私のことで傷ついたり困ったりする可能性があるだろうな」と思うことは信頼だと思うし、それによりいっそう傷つけたり困らせたりしたくないと思う。希少な関係性だ。そういうものを、大人になってから少しずつ得ることができた。ありがたい話だ。

「君に届くな」としか言い表しようのない気持ちのこと(2016-11-07)

この部分が特に強く印象に残っている。もちろんこれは大森靖子《君に届くな》の歌詞、

君が笑ったり 君が泣くのが
私のことだなんて許せない

を引用して述べられている部分だ。

「きっとこの人は私のことで傷ついたり困ったりする可能性があるだろうな」と思えるようにわたしはいつまでたってもなれていないし、「自分のことで笑ったり泣いたりするのが許せない、自分のことが許せないのか相手のことが許せないのか、多分そのどちらもだと思うが、許せない」という気持ちだけずっと大切に持ちつづけてしまっているなあと思った。

「自分のことで笑ったり泣いたりするのが許せない」という気持ちはすごく厄介なんだよね。たぶんわたしのこれは彼女のこれとは微妙に違うところにつながっていて、彼女の場合「自分が好きなものに自分の影響が出ることが耐えられない」というところにつながっているみたいだけど、わたしは「好きなものが自分なんかに影響を受けると知ったら急に嫌いになる」。この違いからして、本当にわたしは「ほとんど何も見えていない」ということを思い知らされるよね。

わたしは彼女の見ている世界を見ることはできないけれど、その彼女の「見ている様子」をわたしが見ることは……というよりも聴くことはできる。わたしはこの本に詰め込まれた彼女の文体を、つまり彼女の視線のあり方を音楽として聴きとり、それを通して彼女の見ている世界の色を想像する。

文章に限らず、私的な作品を味わうというのはいつだってそういう行為で、そしてほんとうにわたしはそれが大好きなんだ。それをさせてくれて本当に心からありがとう、という気持ちを込めてこれを書いた。

「ストレングス・ファインダー」やってみた

「今年やりたい100のこと」にも組み込んでいた「ストレングス・ファインダー」。
やっと受けたよ!
そしてとっても面白かったので、記事にしました。

ストレングス・ファインダーとは

ストレングス・ファインダーは米国ギャラップ社の開発した才能診断ツール。Web上で質問に答えると「自分の才能」を診断してくれる。
ここでの「才能」は「無意識に繰り返し現れる思考、感情、行動のパターン」だと定義されていて、子供の頃からあまり変わらないという。
この「才能」に、練習やスキル開発などの「投資」を掛け合わせることで、「強み」すなわち「常に完璧に近い成果を生み出す能力」が得られるらしい。

診断は、ギャラップ社の公式サイトでアクセスコードを入力して受ける。
アクセスコードの入手方法は2通り。

  1. 書籍を買って付属のアクセスコードを使う
  2. ギャラップ社の公式サイトで直接アクセスコードを買う

わたしは『さあ、才能に目覚めよう(新版):ストレングス・ファインダー2.0』を購入し、付属のコードを使った。はじめて受ける人はたぶんこの本を買うのが良いと思う。基本的な説明が充実しているので。

結果(わたしの才能 Best5)

では、わたしの結果を。
それぞれの資質の特徴のうち主だったもの+とくに印象に残ったものを書き出し、自分の感想を述べます。

収集心

  • あらゆるものを集めて所有するのが好き
  • 知りたがり屋である
  • 集めた情報をあとで参照できるようにまとめる習慣がある
  • 専門用語などの高度な語彙を使って人を出し抜く(最悪……)
  • 理解しにくい言葉を多用した本が好き
  • 自分の使う言葉をすぐに把握できる人と話すのを好む

確実に当たっていると思う。
この資質の中に「語彙を収集するのも好きで、初めて知った難しい言葉をすぐ日常の中で使いたがる」という習性が含まれるらしいのだが、これに心当たりがありすぎて怖い。幼い頃、自分のこの習性を家族にしょっちゅう指摘され、そのたびに笑いの種にされていて、それがものすごく恥ずかしくて嫌だったんだよね……もしかして今もやってしまっていますか、と同居人に尋ねたら、今もやってしまっているようだ。治らないのだろうか。

内省

  • 頭の中で考えるのが好き
  • 情報を集めて洞察する
  • テーマを深く掘り下げたがる
  • 旅するように読書し、さまざまなお土産を持ち帰る
  • 感情を自覚するなど、心で感じ・頭で考えたときに二重の満足感を得る
  • フィクションの登場人物や現実の他人の心情を敏感に感じ取る

自分はあらゆることに浅いレベルでしかタッチできない人間だと思っていたのでかなり意外だった。しかし、後半3つは心当たりがある。

着想

  • 新しいアイディアを考えるのが好き
  • 世の中の常識を覆すことに喜びを感じる
  • 目新しさ、逆説的であること、奇抜なことが好き
  • 毎日新しい着想を得られるスリリングな環境が好き(=飽きやすい)
  • 関係のなさそうな複数の物事の間に関連性を見出す(着想とは結びつきを発見することらしい)

「逆張り思考」「飽きやすさ」は自分の欠点Top2だと思っていたが、それをこんなにもポジティブに言い換えてくれるとは、なんて優しいテストなのだろうか。
着想力=結びつき発見力、という考え自体に膝を打つ。しかし自分は、物事の間に関連性を見出すのはどちらかというと苦手だと思っているのだけれど……実際どうなのだろう。

戦略性

  • 複数の可能性(選択肢)をじっくり検討してから行動する
  • 先を見通す力がある
  • メモ魔
  • 注意深い
  • 繰り返されるパターンを見つけて物事のあいだにつながりを作るのが得意
  • 自分の考えを的確に表現できる言葉を見つけるのが得意

メモをよく取るというのは確かにそのとおり。
「先を見通して危険を予測できる」という性質が「ネガティブ思考」に見えることがあるらしい。なるほど、そうやって言い換えればいいのか〜。なんかストレングス・ファインダーが就活の自己分析に使われる理由がわかってきた。
でも、上で述べた「関連性を見出す」のと同様、パターンを認識するのも苦手だと思っているんだよねえ。本当にパターン認識が得意だったらもっとうまいこと楽曲分析とかできるのになって思うわ。

最上志向

  • 「優秀であること、平均ではなく」(あくまで得意分野において)
  • 弱点を克服するより、すでにある強みを徹底的に磨こうとする
  • 自分の才能・知識・スキルを頼りにして成長する
  • 苦手なことに挑んで自信を失うリスクは取らない
  • 自分の得手不得手に関する自分の直感を信頼している
  • 強みを高く評価してくれる人と過ごしたがる(弱点を克服させようとする人のことは避ける)

はいそうですとしか言えない……(特に最後)

「強みシステム」を作ろう

今回のテストで明らかになった自分の5つの才能。これらを全部リンクさせれば「わたしのかんがえたさいきょうの強みシステム」を築けるのでは!?
そう思って、考えてみた↓

(1) 知識を「収集」する
(2) それを糧として「着想」「内省」する
(3) 浮かんだ考えを「戦略」を立てるために活かす
☆ 上記 (1) (2) (3) は、長所や才能を更に磨いて「最上」に高めるために行う

これ以外の方法でも連関させられるんだろうけど、当面はこのつながりを意識してみようと思う。

こうやってリンクさせておくのはとても便利。だって、行き詰まったときにはとりあえず (1) or ☆ に目を向けるとよさそうだし。

実際わたしは「良い考えが全く浮かばない」「どの道を選んでも詰む気がする」となって落ち込むことがよくある。そんなときにはおそらく、
「インプット不足ではないか」「優れた点を無視してやたら欠点をカバーしようとしていないか」
みたいなことを考えれば、自然と状況が好転しそうな気がしてきた。

才能を活かすための具体的な行動

書籍『さあ、才能に目覚めよう(新版):ストレングス・ファインダー2.0』では、それぞれの才能を活かして「強み」へ育ててゆくための行動アイディアがいくつか提示されている。

現在すでにやっていること

勧められている行動のうち、すでにやっていることがけっこうあった。

  • 積極的に「読む」「考える」「書く」
  • その日考えたことを日記に書く
  • 哲学・文学・心理学に触れる
  • 「偉大な思想家」と考える人たちと意識的に関係を築く
  • 人の成功を助ける活動をする

これだけやけど……なんか、うまく乗りこなしてるような気がして嬉しい。

今後取り入れたい/気をつけたいこと

まだやっていなくていいなと思った行動アイディアや、これはぜひ意識したいと思った注意点は以下。
「2020年やりたい100のこと」に取り入れるなどして実行していこうと思う。

  • 「読む時間」「考える時間」「書く時間」をスケジュールに組み込む
    予定として組み込むのは確かによさそう。
  • 興味のあることについて話し合ったり情報を共有したりできる場をつくる
    もはやこれだけが自分の社会的責任のような気分になってきてるけど、具体的にどうしようかな。将来なんらかの場を自ら開きたいとは思っているけれど、まずは既にある場に自分が参加することだよね。
  • 自分を飽きさせないために毎日ちいさな変化を起こす
    大事すぎる。これも具体的な方法を考えたい、というかこれまでも考えてきたけど、いまいちうまくいっていない。自分の場合けっこう大きめの変化を毎日起こし続けないとすぐ人生に飽きるのですが、何かいいアイディアはないでしょうか。
  • 達成したい目標について、関連するパターンや問題がはっきりするまで熟考する時間を持つ
    なにかに動揺して重要事項を即決しようとすることがごくまれにあるので、この考えを指針として持っておきたい。
  • 「壊れているものを探して直せ」という社会通念に抑圧されないようにする
    案外難しいよね……
  • 新しいプロジェクトには必ず初期段階・企画段階から関わる
    これはほんまに後悔したことが何回もある。気をつけます。

助けてくれる人たち

わたしの資質の良い面をさらに強化してくれたり足りない点を補ってくれたりするのは、以下の資質を持つ人だそうです。

  • 目標志向・規律性
    「収集心」から抱く知的好奇心が脇道に逸れたときに軌道修正してくれる
  • 活発性
    この人の行動力と「戦略性」の予測力が合わされば最強ペアになれる
  • 分析思考
    「着想」が本当に実現可能か質問してくれるのでアイディアが強化される
  • 回復志向
    問題解決が得意なので、「最上志向」で置いてけぼりになる部分をサポートしてくれる

同居人にも同じテストをやってもらったところ、彼の才能Best5のうちわたしと同じ資質が2つ、違う資質が3つで、後者のうち1つが「分析思考」だった。
普段からわたしがめっちゃいい考えだと思って提案したことをあっさり却下されることがけっこう多くてそのたび凹んでいたけど、あれはわたしを否定してたんじゃなくてわたしのアイディアの非現実的なところを指摘してくれてたのか、と思うと納得できたしありがたいと思えました。

「自己肯定感」がわかった気がした

ストレングス・ファインダーをやってみて、「それぞれが得意なことをやって助け合えばよいのだ」と改めて思えたのは本当によかった。

そして、このテストでは人間の資質が34に分けられているけれど、実際の「その人の良さ」というのはひとりひとり異なり、これまで生まれた人間の数と同じだけあるのだろうと思う。

そして、その中の1つが自分だという感じ!

自己肯定感というものがあるとすれば、この感じなのかもしれない。

自分を本当に受け入れるにはやだ自己を肯定するのでは足りず、しかし他者を肯定するだけでもだめで、「自己も他者も他人も含めた世界」をまるごと肯定することが必要なんだろうな。難しいけれど……でもまったくわからなかった頃よりはマシかな。

自分も含めたみんなのことをちゃんと愛していきたい。心からそう思いました。

宇佐美りん『かか』

なんで「自傷読書」か。それは、この小説のさわりをちょっと立ち読みした瞬間に、「これはわたしのよく知っている体験について書いてある小説だ」ということと「わたしの急所を的確に突いてくる、わたしにとってかなり痛くてつらい読後感をもたらす小説だ」ということが明確にわかり、それをわかった上で買って読み、やはり痛い経験をして、しかしその痛みにどこか救われている、そういう読書だったからです。

本当はこの記事で、この小説のどんなところに共感したか、自分のどんな経験が響きあったか、どの文章がわたしを一番突き刺したかっていうことを書こうとしていたけれど、それはやっぱりやめました。だってこの小説は、具体的に同じような経験をしていない人のことも突き刺すことができるすごい小説だと感じたから。

一箇所だけ、わたしが圧倒された部分を引用しておきます。

おそらく誰にもあるでしょう、つけられた傷を何度も自分でなぞることでより深く傷つけてしまい、自分ではもうどうにものがれ難い溝をつくってしまうということが、そいしてその溝に針を落としてひきずりだされる一つの音楽を繰り返し聴いては自分のために泣いているということが。

ぜひ読んでください。同じ痛みをどうか味わってください。

解離性同一性障害当事者的『ファイト・クラブ』初見の感想(2019/11/17追記)

前提

・映画『ファイト・クラブ』を初めて観た(北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』にて、本文を読むより先に作品をみるように書いてあったので……←本書の該当部分はこれから読みます、つまりこの記事を書いている段階では未読)
・わたしは解離性同一性障害(いわゆる多重人格)である(治療は中断している。他の人格が「乗っ取られる恐怖、消される恐怖」によって治療を拒否したためです)
・今、これを書いているわたしという人格の性自認は女性である
・酔っ払っているので本当に適当な感想です

最後まで観た感想

いや、それ全部すでにマーラがやってることだからね!(男性、かわいい)

なんかすごい革命やってしまったよ、て感じのラストだけど、マーラがすでにやってきてることばっかりだし!!!ってつっこみたくなった。

具体的にどういうことなのかうまく説明できないのだけど……たとえば、マーラを守るために主人公が道路で自動車を止める「いかにもかっこいいシーン」がラスト近くにあるけど、だいぶ初めの方のシーンでマーラは自動車がめっちゃ飛ばしてる道路にひとりで歩いて突っ込んで行ってしかも全然怪我せずに生き残ってしまっていたよね。あれがわかりやすい象徴なのかなと思う。

そういう意味で本当に、男性性が愛おしくなる、可愛らしくなるような結末だった。
しかも「これは僕の理性じゃないんだよ本能なんだよ〜〜〜」みたいなのがさらにウケる、かわいい。

こういう、「男性的なドヤ顔」に対して「かわいいよね」ってもはや笑えちゃうというそのこと自体に、最近は興味があります。

なんでそっちを消してしまったんだろう

消された人格(タイラー)ほんとうにかっこよすぎてどうしたらいいかわからなかった。好みだったのかな。暴力を受けてあげることの奉仕、みたいなやつの意義を感じた。男性的だと言われがちな暴力的なものごと(消された人格のほう)が実は女性的感覚に近いところに存在しているのではないかという予想。でもそうではなくて、もう一方の人格の被害(やけどとか)に感情移入して「いいな〜〜〜」って思ってるだけかもしれなくて複雑。わからない。とりあえず、二項対立はむりがあるということを思った。

結局は甘えたいし一番になりたいんだよね、というのが切実に伝わってくる

わたしと別の人格ちゃん(女の子も男の子も)は、おそらくわたしが得られなかった「親に対して甘える経験」を今経験しようと必死という感じがするのだが、この映画では「親に殴られる経験」を得ようと必死なんだろうなという感じがした(どちらの人格も)
それがすごく切なくて、、、

わたしの別の人格ちゃんのうち、女の子のほうはわかりやすい甘えたさんなのなが、それに対して男の子のほうはわざと怒られようとする傾向がとても強い。これがいわゆる男の子性というものなのかな、と思った。男性の、親に対する感情というのは本当に複雑だしある意味美しいのだな、と改めて思った。

観ないほうがよかったのかな…

解離の患者はできるだけ解離を扱ったフィクション作品から遠ざかるようにアドバイスする専門家もいる。

今回私は、これが解離を扱った作品だと知らずに観てしまった。。。まあ別に今のわたしは積極的に治療を受けようとしているわけではないからどうとでもなれという感じなのだが、注意して過ごしているひとは、しばらくは観ないほうがよいのかもしれないなあと思いました。

解離性障害でない人で未見のひとは是非見てください、アマゾンプライムでただで観られるので。

原作読みたい

好きな表現が多かった。文体とか言葉の選び方で本を選ぶ人間なのだが、映画を観ていて「セリフの言い回しがめちゃくちゃすきだな、わかるな」と思うことが多く、原作をぜひ読みたいと思った。また、わたしはそもそも一人称で進む物語が好きというのもあり、その点においても本当に原作を読みたい(買いたい)と思った。

ちなみに、「映画史的に重要作品である」ということが映画に全然詳しくないわたしにも感覚的によく伝わってきたので、原作とは別に映画としても本当に素晴らしい作品なのだと思う。

母親なるものの正体

たぶん「母親」なるものは清純なものではない、
その実態は、あのむちゃくちゃなマーラなのである。
そう、決して(神のように胸に抱いてくれる、性別を超越しかけている存在としての)ボブではないのだ!!

これがこの作品の重要なメッセージの1つではないかなと思った。

言い訳

酔っ払っているので本当に適当ブログです。この一個前の記事を自分の尊敬している方々にたくさん読んでいただけたりしたので、その次にこんな適当な記事をつづけて書いて申し訳ないのですが、、、まあ、自分のペースでやる次第です。ご容赦くださいませ。

夢の中で考えていたこと(2019/11/17追記)

映画を観終わってこの記事を書いて寝たあと、夢の中でいろいろ考えてしまっていた。その内容を追記する。

マーラも別人格だよね!?

マーラもひとつの人格にすぎないのではないのだろうか。そう考えると腑に落ちるところがとても多い気がする。(もちろん辻褄が合わなくなる場面もあるけれど、タイラーにおいてもそういう部分があるのだし……)

たとえば主人公が「またメッセンジャーをやっている」と感じる場面などは、人格同士のやりとりとしてかなりリアルに感じられる。

「父殺し」のヴァリエーション

名作と呼ばれるものの多くがそうであるように、この作品もまた、「父親」や「父親なるもの」との闘いを描いたものだと思う。そして、その父殺しのテーマが重層的に変奏されていく? のがこの作品の面白さだなと思った。

タイラーは父殺しの欲求を煮詰めたような人格であり、タイラーと主人公とのファイトはわかりやさく「父殺しの欲求とそれに対する抑圧とのファイト」なのだけれど、ここでそもそも双方が互いを父親的な存在だと見ているらしいのが面白い。さらにもう一つ大きな枠組みで見ると、偉大な父親としての資本主義社会、というのも描かれているし、たぶん他にもいろんなレイヤーでこのテーマが繰り広げられている、そんな映画。

ラストシーンで主人公とタイラーとマーラがいるビルも破壊されるのかどうか、そのあたりはあまり描かれずに本編は終わるけれど、たぶん破壊されるのだろう。あのシーンにおいて高層ビルが男根の象徴だとすると、「周りの高層ビルだけでなく、自分のいるビルも含めて爆破すること」、つまり自分自身の去勢らあるいは自分自身の中の「父殺しを欲する部分」の去勢?こそがたぶん「父殺し」の本当の完成なのだろうね、ということを考えた。このあたりが、テイラーが口にしていた「自己破壊」という言葉の意味なのかな?

ボブが名前を再獲得するやつ

計画の中で死んだボブが、死んではじめてメンバーから名前を呼んでもらえる、という部分。この展開どっかでみたことあるなあ、と思ってたんだけどやっと思い出した。「100分de名著」のカイヨワ『戦争論』の回で西谷修が語ってた、「世界大戦で死んだ兵士は、名もなき兵士として死んでいくからこそ英雄視され、死後は記念碑に名前を刻んでもらえる」というやつに似ているんだな。

「その銃、清潔なのか?」の尊さ

タイラーに銃を口内に突っ込まれ、今にも殺されそうだという危機的状況で主人公がつい抱いてしまう「その銃は清潔なのか」という疑問がわたしはとても愉快に感じられた。

主人公の「脳内台詞」(当然、口に銃を突っ込まれていたりめちゃくちゃ脅されていたりで言葉を喋ることができない)によって発されるこの問いを作者がどういう意図で使っているのかわからない。どちらかというとネガティブなイメージで使われてるのかもなーとも思う。でも、わたしはこの台詞を「いわゆる女性的な感覚で痛快だな」と感じた。自分の欲求の原因を他者に求めて他者を破壊することで欲求を乗り越えようとするタイラーの態度に対して、「ところでその銃、清潔なのか?」という向き合い方をする。たとえば女性が男性の性的欲求を受け止めながら頭では夕飯の献立を考えている、みたいなのに近いというか。このような「感覚のズレ」のようなものは決して無くすべきものではなく、むしろ大切にすべきものなのではないかとわたしは最近考えている。そしてたぶんこの辺の感じがわたしの中で、冒頭で書いた「男性かわいい」みたいな感覚につながっているような気がする。

とにかく、「その銃、清潔なのか?」に関してはとても主人公に共感を抱いた。そしてそれと同時に「父と息子という関係性が氾濫する世界に対抗する手段」として捉えられる尊い言葉だった。だから、最後にタイラーから銃を奪ったそのあとも、どうか彼があの問いを発した感覚を忘れていませんようにと願わずにはいられなかった。そうでなければこれは、少なくともわたしにとっては救いがない映画になる。

(追記終)

川上未映子『夏物語』と『現代思想:反出生主義を考える』を読んだわたしのとりあえずの考え

少し前のニュース。

出生数90万人割れへ 19年、推計より2年早く:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO50672490W9A001C1MM8000/

まだ90万人も生まれていること、生まれさせることを決めた親が90万組もいることにむしろ驚愕する。わたしはそっち側の人間である。

川上未映子の本だけがわたしの理解者だった

幼い頃から、人間が人間を生むという営みに恐怖を抱いて生きてきた。

この世界に新しい人間を生み出すのは暴力ではないかと思う。たまに幸せを感じることもあるが、それを考慮してもなお、生きることは苦しいと思うからである。それなのに、ものを感じる主体を新しく生み出してしまって本当に良いのか。なぜ出産が喜ばしいことだとされているのか、ずっとわかっていない。

せめて、生まれる前の子供に「生んでもいいですか」と訊けたらどんなに良いかと思う。わたしも生まれる前に訊かれたかった、訊かれたら「いやだ」と言いたかった。わたしは、できることなら生まれたくなかった。生まれ変わったら何になりたいかと訊かれたときには、「生まれ変わりたくないし、絶対生まれ変わらなきゃいけないなら意識のないものがいい」と答えてきた。

それに自分の周りには、死ぬことを嫌がったり先延ばしにしたがったりする人間が多い。人は今の所かならず死ぬので、現時点では、人を生むということは同時にその人の死をも生み出していることになる。そこで、死にたくないと言っている人間が子供を生んでいるのがどういう理屈なのかよくわからない。自分の子供は死への恐怖を抱いても構わないということなのだろうか。

じっさい、周りの友人は普通に出産をする。しかもそれは祝われており、褒め称えられてさえいる。なぜ? 彼/彼女らはそれぞれの生に満足していて、わたしは自分の生に満足していない、それだけの違いなのだろうか。

そうして生きていたある日、川上未映子『乳と卵』に出会った。少し長いけれど、引用する。

 もし、わたしに生理がきたら。それから毎月、それがなくなるまで何十年も股から血がでることになって、それはすごいおそろしい。それは自分でとめられず、家にもナプキンはないし、それを考えるとブルーになる。
 もしも生理がきてもお母さんにはいうつもりないし、ぜったいに隠して生きていく。だいたい本の中に初潮を迎えた(←迎えるって勝手にきただけやろ)女の子を主人公にした本があって、読んでみたら、そのなかで、これでわたしもいつかお母さんになれるんだわ、感動、みたいな、お母さん、わたしを生んでくれてありがとう、とか、命のリレーありがとう、みたいなシーンがあって、びっくりしすぎて二度見した。
 本のなかではみんな生理をよろこんで、にっこにこでお母さんに相談して、お母さんもにっこにこであなたも一人前の女ね、おめでとう、とか。
 じっさにクラスでも家族みんなに報告して、お赤飯たいたとか食べたとかきいたことあるけど、それはすごすぎる。だいたい本に書かれてる生理は、なんかいい感じに書かれすぎてるような気がする。これを読んだ人に、生理をまだしらん人に、生理ってこういうもんやからこう思いなさいよってことのような気がする。
 こないだも学校で移動んとき、あれは誰やったか、女に生まれてきたからにはぜったいにいつか子どもを生みたい、と言ってた。たんにあそこから血がでるってことが、女になる、ってことになって、女としていのちを生む、とかでっかい気持ちになれるんはなんでやねん。そして、それがほんまにいいことやってそのまま思えるのは、なんでやろ。わたしはそうは思えんくて、それがこの厭、の原因のような気がしてる。こういう本とかを読まされて、そういうもんやってことに、されてるだけじゃないのか。
 わたしは勝手におなかが減ったり、勝手に生理になったりするような体がなんでかここにあって、んでなかに、とじこめられてるって感じる。んで生まれてきたら最後、生きて、ごはんを食べつづけて、お金をかせぎつづけて、生きていかなあかんのは、しんどいことです。お母さんを見ていたら、毎日を働きまくっても毎日しんどく、なんで、と思ってしまう。これいっこだけでも大変なことやのに、そのなかからまたべつの体をだすのは、なんで。そんなことは想像もできひんし、そういうことがほんまにみんな、素晴らしいことやって、自分でちゃんと考えてほんまにそう思ってるんですかね。ひとりでおるとき、これについて考えるとブルーになる。だから、わたしにとっていいことじゃないのはたしかやと思う。
 生理がくるってことは受精できるってことで、それは妊娠。妊娠というのは、こんなふうに、食べたり考えたりする人間がふえるということ。そのことを思うと、絶望的な、大げさな気分になってしまう。ぜったいに、子どもなんか生まないとわたしは思う。

これは『乳と卵』の、緑子という11歳の女の子がノートに書いた文章である。わたしは高校生の時にこの部分を読み、それ以来、自分の一番の理解者は緑子だと思うようになった。

生まれ変わったらまたこのクラスに生まれたいね、みたいなことを言ったあの子や、将来子ども何人ほしい? って訊いてきたあの子、それに対して2人がいいなって言ってたあの子、また、将来子どもを産むときに困るからという理由で様々なことを制限してきた母とは違って、緑子だけは自分と同じ世界にいるような気がした。そして、緑子という人物を書いてくれた川上未映子にも信頼に似た感情を覚えるようになった。それからのわたしは、彼女の書く本を全部買った。生まれてきてしまったことが本当につらいと思った夜には、よく彼女の本を開いて、独特のリズムの中を漂ったものだ。

そして時は流れ、2019年、『乳と卵』の続編である『夏物語』が刊行された。もちろんわたしはこれも買って読んだ。

『夏物語』読後の絶望――また、誰もいなくなった

以下は、『夏物語』読後の自分のツイートである。

簡単に言うと絶望していた。
人を生むことに対してかなり慎重派だった「夏子」(緑子の叔母にあたる人物)が、あまりにも曖昧に思える理由で子どもを生むことを決め、しかもそれが物語全体の結末だったからだ。

帯には「圧倒的感動」と書いてあった。
どこが?(本当に訊きたい。どこが感動ポイントでしたか?)

感想を検索すると「こんなこと考えてみたことなかった〜」みたいなやつがあった、しかも女性の感想。ほんとうに信じられなかった。これを考えずに生きていられる女性にどうやったらなれるのか知りたかった。でもこれを考えなかったからこそ子供が生めたという人がけっこういるのかもしれない。(考えて生んでいる人もたくさんいると思っているけれど)

またもや世界から疎外された気がした。緑子はいなくなってしまった、緑子をあんなふうに書いた人も、もうこの世にはいないのだと思った。

そんな『夏物語』の中にもわたしと近い人物がいて、それは「善百合子」という女性だ。

「ただ、弱いだけなのかもしれないけれど」善百合子は頼りない笑みを浮かべて、そして小さな声で言った。「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」

わたしにはこの言葉の意味がとてもよくわかる気がした。善百合子を描いてくれたこと自体は心から嬉しかった。
だからこそ、そのあと善百合子に対して夏子が発した言葉や取った行動が本当にほんとうに許せなかった。引用もしたくない。今読み返しても腹が立つ。生むと決めた人独特の傲慢さを煮詰めたような表現だ。(この表現ができるところが、川上未映子の凄さだと思うのだけれど)

今思い返すと可笑しいことだけれど、『夏物語』読了直後のわたしはなんだか川上未映子に裏切られてしまったような気がして、インスタグラムのフォローを衝動的に外したりもした。勝手に信じたり親近感を抱いたりしていたのは自分なんだけどね。でも実際に川上未映子は、『乳と卵』と『夏物語』の間に子どもを生んでいる。この人が子どもを生むことを決めたのも夏子のような曖昧な理由だったらどうしよう、と思ったら本当につらい気持ちになってしまったのだ。

生まれてしまった苦しみを共有できていると思っていた人がいつのまにか子どもを生んで親になることはこれまでにもよくあった。なぜ、あんなに苦しいと言っていた生を新たに生み出そうと思ったのか。その理由を聞いて納得できたことはまだ一度もない(そういうことを訊ける関係性に置いてもらっているのは幸福なことだ)。そしてこういう経験は、これからも何度もあるのだろう。誰も悪くない、とてもつらい経験だ。(そう、たぶんわたしは本当のところでは子どもを生む友人たちを心から理解したいのだし、もっと言えば、自分が生まれてきたことを正当化できる理由が知りたいのだと思う)

自分の中の反出生主義と向き合いたい

『夏物語』を読み終えて数日間は心が重いままだった。この、あまりにも苦しい読書体験を経て、わたしはそろそろ自分の中の思想と向き合わなければならないのかもしれないと思い始めた。

『夏物語』の参考文献には、デイヴィット・ベネタ―の『生まれてこなければ良かった:存在してしまうことの害悪』が挙げられている。ベネターは「反出生主義 anti-natalism」の論客である。反出生主義は、ごく単純に述べると、子どもを生むことに対して否定的な立場を取る思想のことである。
わたしが『夏物語』を読み終えたのは10月初旬のことだが、その頃、奇しくも『現代思想』11月号においてベネターを中心として反出生主義が特集されると知った。

自分の中で「生まれてこなければよかった」「子どもを生むことは悪」という考えが当たり前すぎたので、それと似た思想とされる「反出生主義」についての論考をわざわざ読もうと思ったことは一度もなかった。
でも、ここらへんで一度向き合っておかなければいけない気がした。『夏物語』で動揺してしまったのは、自分の中での確固たる思想というか、思想の根拠みたいなものが揺らいでいる証なのではないかと思ったからだ。そこで、『現代思想』を購入して様々な論者の主張を読むことは、自分の考えを相対化して捉え直す上で有効な手段だと思えた。

ベネターの「他人事感」にイラつく

『現代思想』を読みはじめてすぐに気がついたのは、「ベネター関連の文章には、やたらイライラしてしまう」ということだ。わたしはどちらかというとベネターの思想と近い考えを持っているはずなのに、ベネター本人の主張に、どうしてこんなにイライラするのか。

ベネター自身の主張やそれに対する様々な人の反論を読み進めて気づいたのは、「ベネターの文章やそれを論理的に批判しようとしている人の文章には、なぜか他人事感がある」ということだ。
それは果たしてなぜなのか――最初は、森岡正博が言うように、ベネターの議論が「哲学的なパズル解き」にとどまって、実存的な問題として捉えきれていないからなのかな、と思ったが、それだけでは説明しきれない気がする。

具体的には、(ぜんぜん論理的な説明ができないのだが、)以下のような感想を抱いてしまうのだ。

なんというか、わたしたち女は生理のたびに、なんでこんなに痛い思いしないといけないのか、出産というのはこの苦しみと引き換えになるほど価値のあるものなのか、ということを少女のときから月イチでずっとずっと考えているというのに、いまさら分析哲学で論理的に示してドヤ顔されてもな、みたいな感じがするのである。

じっさい小手川正二郎は、ベネターの反出生主義が子づくりにおける現実の難しさを誤った方向に逸らしてしまうと指摘している。わたしもそれ自体には賛成できるのだが、この指摘の根拠として述べられている内容はわたしの感覚とはあまり重ならなかった。

『現代思想』をぜんぶ読んでみても、ベネター周辺の議論に感じた「他人事感」の正体や原因はよくわからないままだ。
しかし、このような「他人事感」を抱くと同時に、『夏物語』やそれを著した川上未映子に対する自分の捉え方が変容してきたのがとてもおもしろかった。

全然わからない、けれども

結局『現代思想』を読んでも自分の立場をクリアにすることはできなかった。むしろ、ベネター自身の主張に対してネガティブな感想を抱いてしまったことで、より混乱したような気もする。

しかし、ベネターの反出生主義に対する様々な反論を読むことで、自分の中でけっこう幅をきかせていた反出生主義的な部分に対して、自分で反論を加えることが可能になったことは収穫だった。自分の考えについて、これからもっと深め、広めてゆく価値があるように思えた。

『現代思想』を読んだ中で、今のところ自分が取り入れられそうな考えは、

佐々木閑が仏教的視点から絶対的真理であると述べる以下の考え方
「生きることを苦であると自覚した人にとって子供は、自己をその苦しみの世界に縛り付けるくびきとなるので、作ってはならず、作ったなら捨てねばならない」(つまり、ベネターのように子供のことを考えるのではなく、自己のことを考えた結果としての反出生主義)

または逆卷しとねが紹介している、ダナ・ハラウェイの「非‐出生主義者 non-natalist」的立場

の2つである。

そういえば反出生主義の文脈でベネターと同じくらい有名なのがシオランだと思うが、わたしはシオランにはイラついたことがない。それはなぜなのだろう?
木澤佐登志の述べるところによると、シオランは反出生主義を「ひとつの個人的経験」と捉えているらしく、そこが関係あるのか?(ベネターは割と宇宙的視点に立っている)
シオランに関する議論も勉強してみなければならないと思った。(他の反出生主義者だと、ショーペンハウアーにもちょっとイラついたことがある)

それから、わたしが「子どもをつくること」を一般的に忌避してしまうことに関連して、これまで自分が検討してきたのとはまったく別の視点からヒントを与えてくれそうなのが、古怒田望人が論の中で紹介していたリー・エーデルマンの「子供なるもの the Child」概念だ。
エーデルマンは、逆巻しとねの論においてはハラウェイと並べて論じられていた。
最近なんとなくクィア関連の議論がわたしに新たな糸口をもたらしてくれるかもしれないという気がしていたが、『現代思想』を一通り読んでみてその予感がますます確かなものになってきた感じがする。

そして、いくつか自分自身の認知パターンに気づくことができたのも収穫であった。
まずは島薗進が、ゴータマ・ブッダが自分の誕生と引き換えに母親を喪っていることを引き合いに出して、仏教においては生まれることと害することが結びついているということに言及していた。このブッダの境遇は自分と少し近いので、自分の反出生主義的な考えは、生まれついた環境にも影響されているかもしれないと思った。
さらにベネターの思想について「他人に害悪を与えてはならない」という消極的義務の優先性が前提となっていることを小手川正二郎が指摘している。これは確かにそのとおりかもしれないと思ったし、この消極的義務の優先性が自分の中にも巣食っていることに気がついた。「他人に幸福を与えなければならない」という積極的義務を優先させるという生き方もあるのだ。

現時点でのわたしの考え

ほとんど個人的メモのような記事になってしまったが、現時点でのわたしの考えをまとめて終わろうと思う。

  • 自分の思想はベネターとは少し違う気がする(何が違うのかはまだわからない)
  • 「出生主義」でも「反出生主義」でもない立場を探りたい
  • もっと勉強することが必要である
  • 川上未映子のインスタはフォローし直そうと思う

こんな感じかな。
とりあえず今は、みんなの『夏物語』の感想をきいてみたいなあ、と思えるようになった。大きな進歩である。

『玄関の覗き窓から差してくる光のように生まれたはずだ』のサイン本を手に入れた

ずっとほしくてでも手に入れ損ねていた本に、今日やっと書店で出会うことができ、しかもそれがサイン本だったので感動してしまった。それを伝えるためだけの記事です。

この綺麗な装丁を見て。

木下龍也と岡野大嗣のふたりの歌人が、ふたりの男子高校生になりかわって、それぞれの七日間を短歌で描いた本です。

カバーを取ると、

こうなっているんです。どんな本もそうですが、この部分を見ようと思うと、図書館で借りるのではだめなのです。そして美しい装丁の本というのはこの部分が美しいことが多い! やはり、すてきな本は絶対に購入しなければならない……

そしてサイン。2人分のサインが入った本を買うのは初めてかもしれない。

しかも、買って初めて知ったんですが、舞城王太郎によるスピンオフ小説が挟み込まれていました。ありがとう…ありがとう……

我慢できずに帰りの電車で数首だけ味わいました。
詩歌はゆっくり摂取するのが醍醐味だと思うので、少しずつ読み進めたいです。

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』――意味がなくて鮮やかなわたしたちの生活

わたしはインディアンたちの服が回っている乾燥機を、目をちょっと寄り目にして眺めるのが好きだ。紫やオレンジや赤やピンクが一つに溶け合って、極彩色の渦巻きになる。

「エンジェル・コインランドリー店」

今日は、ルシア・ベルリン著・岸本佐知子訳の『掃除婦のための手引き書』を紹介しようと思う。
とても好きな作品で、うまく紹介できるか不安だけれど、がんばって書いてみる。

ルシア・ベルリンという作家

待って。これにはわけがあるんです。
今までの人生で、そう言いたくなる場面は何度となくあった。

「星と聖人」

ルシア・ベルリンは1936年にアラスカで生まれた。
アメリカの各地、チリ、メキシコ。たくさんの街に暮らした人だ。
鉱山町での日々、貧民街での暮らしと召使いのいる暮らし、シングルマザーとしての生活、静かな山奥の風景。教師、掃除婦、電話交換手、看護婦、小説家、刑務所での創作教室の講師、大学の准教授。
三回の結婚、そして三回の離婚。子供の頃に患った脊柱側弯症とその後遺症。アルコール依存症と、その克服。2004年、68歳の誕生日に死去。

ああ、なんて「カラフル(*1)」な人生なんだろう。

彼女の小説は、ほぼすべてが実際の彼女の人生を材料にして書かれているけれど、その人生があまりに多彩なのでどちらが小説なのかわからない。
実際、「彼女にしか持ち得ないような目と耳の鋭さ(*2)」によって描かれる世界は、現実よりも現実味を帯びているような感じがする。

いわゆる「忘れられた作家」だったようだが、リディア・デイヴィスが絶賛したことで訳者の岸本佐知子さんの目に留まり、今回の出版につながったとのこと(本書の巻末にはリディア・デイヴィス本人の言葉もある)。

本書以外で日本語訳されているルシア・ベルリン作品は「火事」(岸本佐知子編訳『楽しい夜』に収録)がある。

また、川上未映子責任編集の『早稲田文学増刊 女性号』にも本書の表題作である「掃除婦のための手引き書」が収録されている(わたしはこの本で初めてルシア・ベルリンに触れた)。

(*1)(*2)訳者あとがきより。

チェーンのカフェ、そしてコインランドリー

隣に座った盲目のお婆さんは点字を読んでいる。ゆっくり、音をたてずに、指が一行一行をなぞっていく。横で見ていると心がおだやかになる。お婆さんは二十九丁目で降りていった。〈盲人工芸品販売所〉の看板の “盲人” 以外の文字が全部なくなっている。

「掃除婦のための手引き書」

この『掃除婦のための手引き書』を開く時、わたしはなぜかいつも、チェーンのカフェでぼーっとしているときの気持ちになる。
どちらかというと凄惨な表現が多い本なのに、こんなに静かな気持ちになるのは不思議だ。

そもそも、わたしがチェーンのカフェでぼーっと感じている気持ちとは、いったい何なのか?
それをまず、説明してみようと思う。

チェーンのカフェとは、スタバとかドトールとかエクセルシオールとか、そういう種類のお店だ。
そういったカフェで周りの人を眺めているとき、不意に「なぜわたしはわたしであり、あの人ではないのだろう?」と考えてしまう癖がわたしにはある。

その疑問は、
「わたしの人生はこれで大丈夫なのだろうか」
「いろいろな可能性があった中で、この人生を選んだのは正しかったのだろうか」
「なぜわたしは、こんなふうに生まれてきたのか」
などのいろいろな不安から生じているような気がする。

カフェで、あるいはカフェの窓越しに一瞬だけ出会うひとりひとりの、生活をわたしは想像する。
隣に座った人、少し遠くに横顔が見える人、窓の向こうの雑踏の中でふと目に留まった人。
たまたま今はすごく近くに存在しているけれど、それ以降は絶対に出会わない彼/彼女ら。

あの人は、今晩どんなごはんを食べるのかな。
どんな場所で寝るのだろう。
家族はいるのかな。
明日起きたら、どんなふうに髪を梳かすのだろう。

そして自分自身の、どうでもいい生活を重ね合わせる。
「あの人」と「わたし」の、淡々とした毎日が重なるとき、
あの人は「ありえたかもしれないわたし」に、
わたしは「とりあえずわたしということになっているわたし」になり、
どうでもいい生活が、苦しいほどに鮮やかな、愛しい営みとなる。

わたしがチェーンのカフェで抱く気持ちとは、このようなものだ。

あなたと私との融解、私の私(と、あなた)からの疎外

わたしは家が好きだ。家はいろいろなことを語りかけてくる。掃除婦の仕事が苦にならない理由のひとつもそれだ。本を読むのに似ているのだ。

「喪の仕事」

『掃除婦のための手引き書』は、短編集である。
それぞれの短編は彼女の人生のいろいろな時点に材をとって書かれているので、舞台となる場所も主人公の年齢も職業もかなり多様である。

この本を読みながら感じる「チェーンのカフェにいるような感じ」は、
「ありえたかもしれない人生」の走馬灯を見ている、その静かな心地よさだったのかもしれないと、読み終えた今になって思う。

ルシア・ベルリンの語り口というのは、
カフェにたまたまいる「あの人」の身体の中に入り込み、自宅までついてゆき、彼/彼女の目の内側から「生活」をただただ眺めているような、
そんな語り口である。

PCを持ち込んで仕事をしているサラリーマンの、参考書を開いて勉強する高校生の、ネットビジネスの話をもちかける人の、それをもちかけられる人の、かなりの速度で雑踏をかき分けてゆくスーツ姿の女性の、あまりにもゆっくり歩く老人の、
生活を、ただ見る。
評価はしない。
というかできない。なぜか?

それは、ルシア・ベルリンの語り口において、もしくはわたしのカフェでの妄想においては、
自他の境界が奇妙に融解し、同時に、奇妙な疎外感が生じているからだ。
こうして自他の概念が崩壊したとき、評価という行為は無効化される。

ルシア・ベルリンの作品で一人称の「私」によって語られるのは、「私」そのものを一歩後ろから見ているような、いわゆる「解離的な」文章である。
血みどろの場面であっても、悲惨な状況であっても、豪奢な日々を描く部分でも、目の前の世界が極端に淡々と、しかし極端に鮮やかに描写される――しかもその描写の仕方は、「私」自身についても適用されているのだ。

それは、「私」を「私以外」と同じ世界で捉えるやりかたであり、
同時に、「(書き手としての)私」が「私(と、それを含む世界)」から阻害されてしまうやりかたである。

そのやりかたは、全然関係のないはずの、時には自分に害を与えることすらある他者たちと自分との間に『ありえたかもしれないわたし「たち」』としての一体感をもたらす。
その一体感がもたらされている間、世界はきわめて静かであり、その静けさの中には、癒やしと悲しみが同居している。
これが、ルシア・ベルリンの文体の「静けさ」の正体だとわたしは思う。

ちなみに、わたしにとっての「チェーンのカフェ」のような空間は、ルシア・ベルリンにおいて「コインランドリー」として現れているのではないかと考えている。
したがって、この短編集の最初におかれた作品がコインランドリーを舞台にしたものであるというのは、非常によくできた構成だなあ、と思った。

書くことのケア性――toi booksでの読書会を経て

ママ、あなたはどこにいても、誰にでも、何にでも、醜さと悪を見いだした。狂っていたの、それとも見えすぎていた? どちらにしても、あなたみたいになるのは耐えられない。わたしはいま恐れている……だんだん美しいものや正しいものを感じられなくなっていくようで。

「苦しみの殿堂」

この『掃除婦のための手引き書』については、大阪の本屋さん toi books にて開かれた読書会に参加して、多くの人の様々な意見を聞いた。
それによって、解釈のための新たな視点を手に入れることができた。

それは、「ルシア・ベルリンにとってこれを書くことは、ケアのひとつだったのではないか」という視点だ。

ルシア・ベルリンの人生は、一般的に言えば、かなり「たいへん」であった。

家族数人のアルコール依存、祖父からの性的虐待、虐待を知りながら見て見ぬふりをする他の家族、妹だけに注がれる愛情、学校でのいじめ、母親の自殺未遂、夫の薬物中毒、自分自身もアルコール依存となった状況での仕事と子育て、死を間近にして怯える妹の介護、など。

誰の人生でもそうだが、人生というのは毎日の生活の総体である。
状況がどんなにつらくても、生活をしなくてはいけない。

そんな中で生まれたのが、上述の「解離的な書き方」である。
これは、彼女が自身の「たいへん」な人生をやっていくための手立てであり、
それと同時に、ひどすぎる家族たちのひどさを諦め、そうして諦めることによって穏やかに受け入れるための手段だったのではないだろうか。

こういう意味での「書くという行為の尊さ」は、
彼女ほどにはつらい目にあっていないわたしにも、痛いほどにわかる。
書くことにこういう意味があるから、わざわざ日記をつけるし、ブログを書くのだ。

そう思うと、ルシア・ベルリンという人がとても近い人のように思える。
同じように苦しみながら生活をしている人。

わたしたちの人生も、生活も、意味がなさすぎて笑ってしまう。
だけど意味のないそれらは、こんなにも鮮やかなんだよ。

ルシア・ベルリンは、彼女自身を含む「わたしたち」に、そう言ってくれているような気がする。

この本は、こんな人に

この本をおすすめしたい人はどんな人か? というのを述べて、記事を終わりにしようと思う。

  • 毎日の生活がしんどい
  • 毎日の生活を愛おしく思いたい
  • 他人と関わるのがしんどい
  • 家族がしんどい
  • どうして私はこんなにつらい人生を続けているのかな、と思う
  • 日記をつけるのが好き
  • 日記ブログを読むのが好き
  • カウンセリングなどでの「語り」に興味がある
  • 海外文学ならではの語り口やジョークを味わいたい

ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』をプレゼントするとしたら、こんな人。
ぜひ、手にとってみてください。

『すべての、白いものたちの』

『すべての、白いものたちの』
このタイトルを初めて目にしたとき、自分が中学生の頃に「白いということ」についての作文を書いたことを思い出した。
雪、白樺、ガードレール。
それらが当時のわたしにとっての「白いものたち」であった。

「白い、とはどういうことなのか」そんなことを書いた作文だった。
詳しい内容は忘れてしまっている。覚えているのは、その作文を自分がほんとうに切実には書けなかったこと、そしてひとりの教師にその事実を指摘されてしまったこと、その2つだけだ。

学校向けに書くのが上手いですね、という言葉。未だに自分の心に突き刺さったままだ。
道徳の授業で褒められそうな、書き手の自分が半分しか同意できないようなつまらぬ結論……そのためにわたしに利用された雪や白樺やガードレールのことを思うたびに胸が苦しくなるのだった。

だからわたしはこの本を読まなければならない、と思った。
これを読んだら、あのとき自分が考えていたことを、再び考えることができるかもしれない。切実に。心から。
「白い、とはどういうことなのか」ということを。

「おくるみ うぶぎ しお ゆき こおり つき こめ なみ はくもくれん しろいとり しろくわらう はくし しろいいぬ はくはつ 壽衣」

ひたすらに街を歩くときふと頭に浮かんでくるような文体で、白いものが語られ続ける。
その白の後ろに透けたり、白にくるまれていたりするのは、常に生と死だ。
生きている自分と生後すぐに死んでしまった姉。
死ななかったかもしれない彼女と、生まれてこなかったかもしれないわたし。
ワルシャワと韓国という2つの街で、曖昧に溶け合ってゆく光と影、そのあわい。

韓国語で白い色を表す言葉には「ハヤン(まっしろな)」と「ヒン(しろい)」の2つがあるらしい。
「ハヤン」は綿あめのようにひたすら清潔な白、「ヒン」は生と死の寂しさをこもごもたたえた色。
この本で著者が書きたかったのは「ヒン」のほうだという。

韓国語は全然わからない。でも、白さが2種類あるというのはなんとなくわかる気がした。
「ヒン」のほうの白さに切実に向き合うのはとてもむずかしいのかもしれない、と思う。

この本は数種類の紙で作られている。読み進めるうちに、紙の白さが変わっていく仕組みだ。
「白」の種類は無限にあるように思える。すべての白いものたちには、それぞれの白さがある。
この世にある無数の色のうち、どこからが白なのだろう?
白いものについて「白い」といえるのはなぜなのか。
そう考えていると何もかもが白に思えてしまう。
それが、中学生のわたしが書いた「白い、とはどういうことなのだろう」という意味だった。
「ほんとうに白い」ということについて、どう考えれば良いのかわからなかった。

現在、常にわたしにつきまとっている希死念慮は、その頃に初めて生じたように思う。
この本で著者が、死んだ姉のことやそれを語る母のことを思うように、わたしは、父のことや父について語る母のことを思う。思ってしまう。
新しい人間の可能性を遺して、自死してしまう人間について。その記憶を抱えて生き続ける人間について。破壊と再生について。

白いということは、どういうことなのだろう。
ほんとうに生きているということや、ほんとうに死んでいるということについて、どう考えれば良いのか?
中学生のわたしが向き合いきれなかった問い。今の自分なら、もっと長い時間それらを眼差すことができる。
でも、答えはまだ用意することができない。そのことだけがわかった。

ほんとうの白に近づきたい。まだその存在を信じているからこそわたしは、ほんとうの白が何なのかわからないなどと考えてしまうのだろう。
生きている限りは近づけないのかもしれない圧倒的な白。
そんなものが存在するのだろうか?
それを信じられなくなるのが生きるということなのだろうか? 信じなくなるどころか、これらの概念を全部忘れ去ってしまった頃にようやくたどり着けるものなのかもしれない。

でもわたしは、ほんとうの白を信じなくなったときにこそ死んでしまう気がするのだ。
こう感じるのがなぜなのか全くわからない。毎日、ほんとうにまいにち、自分にはすべてのことがわからないように思う。

そんな毎日の果てである今日、わたしは一段と心地よいわからなさを静かに食みながら、あらゆる白に包まれている。